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主日礼拝宣教要旨

2018年12月2日(日) 礼拝宣教要旨 「『時』を待つ心」 ルカによる福音書 2章25-38節

  朴 思郁 協力牧師

主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなた の救いを見たからです。

ルカによる福音書 2 章 29-30 節

待降節第一週目をお迎えして、主イエスのご降誕が二千年前の出来事としてだけではなく、いまを生きる 私たち一人ひとりに意味を持たせる出来事として体験できればと願います。生まれたばかりの幼子イエスと 神殿で初対面したお年寄りの二人の物語から「『時』を待つ心」について教えられます。果たして信仰者の持 つべき姿勢と言える「『時』を待つ心」とはどんなものでしょうか。

第一に、状況に振り回されない姿勢であると思います。私たちは置かれている状況に左右されやすいです が、状況の成り行きによって一喜一憂せずに、自分の生きる意味、目的をしっかり保って生きることが大切 であると思います。シメオンが「主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない」と確信していたというの は、言い換えれば、変わりつつある現実の中でも、初心を忘れず、自分の生きる意味をしっかり保っていた ことを意味していると思います。

第二に、自分の考え方や思い込みに執着せず柔軟性を持つことであると思います。私たちは、世界観をは じめ慣習や常識など自分の属する社会に影響を受けています。それにもかかわらず自分の思い描く世界を構 成している種々の固定観念にとらわれずに、常に開かれた姿勢を堅持することを言います。そのためには、 何よりへりくだった姿勢が求められるのでしょう。具体的には、他人の意見、小さな声、違う主張などに誠 実に耳を傾けることであると言えると思います。

最後に、神の言葉に信頼し、精一杯に自分の生活に励むことであると思います。「『時』を待つ」というこ とは、受け身として、忍耐し続けることではありません。むしろ自ら進んで積極的に神の時、御業に自分を 明け渡すことです。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩篇 46:10、口語訳)という言葉が示し ているのは、主がすべてを治めておられることを固く信じる、きわめて「積極的な行為」なのです。イエス のご降誕を前にして改めて信仰の姿勢を整える待降節を過ごしたいと願います。

 

 
 

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