斎藤 信一郎 牧師
新年おめでとうございます。本年もどうぞ、よろしくお願いします。月間テーマと文末の話し合いのポイントは今後省略することに致します。皆様の御加祷を引き続きよろしくお願いします。聖書教育誌と合わせて、豊かな聖書の学びと分かち合いが持たれますように祈りつつ。
◆今回の箇所の直前までのあらすじ・・・主イエスは、ヨルダン川でバプテスマのヨハネからバプテスマを受けた後(3章後半)、荒野で40日間の断食と悪魔からの誘惑を受けます(4章1-13節)。それからガリラヤで伝道を開始し、諸会堂で教え、徐々に人々からの尊敬を受け始めます(4章14-15節)。そして、今回に続きます。
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟発行の教会学校教
◆黙想のポイント
礼拝の場で、途中まで驚きを覚えながら主イエスの宣教を喜んで聞いていた会衆でした。その信仰者たちに、最後は殺意まで抱かせたものとは何だったのでしょうか。ここに大きなギャップがあります。それほど主イエスを赦せなくなった原因について黙想しましょう。
◆ナザレで受け入れられない
4:16 イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。
>>>直前の箇所を読むと、主イエスは度々ガリラヤ湖の周辺地域の礼拝に出席し、人々に聖書の解き明かしをして教え、評判になっていたことが伺えます。聖書教育誌はその理由として、ガリラヤ地方は異邦人の多い地域でもあり、ヘブライ語の原典で聖書が読める教育を受けた者が少なかったのではないかと説明しています。
4:17 預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。 4:18 「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、/主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、/捕らわれている人に解放を、/目の見えない人に視力の回復を告げ、/圧迫されている人を自由にし、 4:19 主の恵みの年を告げるためである。」4:20 イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。
>>>礼拝では聖書朗読をする時、司会者が、その日に朗読するための分割された聖書の巻物を、朗読志願者に手渡していました。主イエスに手渡されたのは、イザヤ書の61章から始まる部分でした。朗読者はその箇所を読み、短くその箇所に関する宣教をすることが許されていたようです。
<参考>新共同訳聖書イザヤ書61章1-2節前半(1,033p)には次のように書いてあります。
61:1 主はわたしに油を注ぎ/主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして/貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み/捕らわれ人には自由を/つながれている人には解放を告知させるために。61:2 主が恵みをお与えになる年/
4:21 そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。4:22 皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
>>>主イエスの宣教に対して、二通りの反応があったことが伺えます。賞賛に満ちた肯定的な意見と、聖書の専門的教育を受けていないはずの大工だったヨセフの子イエスに、驚きを禁じ得ないような反応との二つです。主イエスは彼らの中に重大な信仰上の問題があることを見抜き、次のように語ったために彼らを逆上させることとなります。
4:23 イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。」
>>>カファルナウムはガリラヤ湖の北端にある町で、福音書で度々登場します。そこでの主イエスの宣教活動がナザレまで伝わっていたことが伺えます。『医者よ、自分自身を治せ』とは、その医者の医術の腕を全面的に信用していない時に使われた表現だと考えられます。「大工のせがれに、医者のような病人の癒やしと律法学者のような聖書の解き明かしと、預言者のような奇跡を起こすことが本当にできるのか」そのようなまなざしを、故郷の人々が主イエスに対して向けていたことを鋭く察知した主イエスの言葉でしょう。そして、この言葉は後に、主イエスが十字架に付けられた時に、人々が主イエスに向かって言ったセリフと本質的に同じなのではないかと考えられます。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」(23章35節)
4:24 そして、言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。
主イエスの特徴的な言葉がここに登場しています。「はっきり言っておく」がそれです。言語のヘブライ語では「アーメン」という言葉が使用されています。ここは「聖書を根拠にした確かな神の言葉として断言します。」という強い表現です。主イエスはその理由を次節で展開します。
4:25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、 4:26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。
>>>列王記上17章(561p)の引用です。
エリヤはモーセと共に、旧約聖書の二大預言者です。主イエスが山に登ったときに現れたのも、このエリヤとモーセでした。(ルカによる福音書9章30節他)
4:27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
>>>列王記下5章(583p)の引用です。エリシャはエリヤの後継者です。
これらの引用を用いて、偶像礼拝の影響を受け、正しい神への信仰から離れていた当時のユダヤ人たちに対して、神がむしろ異邦人の純粋な信仰を評価し、神の憐れみを施した例を彼らに示しました。
4:28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、 4:29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。
>>>居合わせた故郷のユダヤ人たちが、どれほど激怒したかが伺えます。同じ会堂どころか、同じ町に一緒にいることを拒み、町の外まで追い出します。しかも、勢いづいて主イエスを崖から突き落として殺害しようとしたのです。これはただ事ではありませんでした。それほど、主イエスが口にしてはならないことを語ったと会衆は判断したのです。礼拝に来た人々にそこまで思わせた、主イエスの問題点とは何だったのでしょうか。結論から言えることは、彼らは大きな過ちを犯したのです。礼拝の場、神の御前で神が求めておられる、信仰者としての態度を取ることに失敗したのです。この箇所で示されているユダヤ人たちの変貌は、主イエスを十字架に付けようとする決断にまでつながっていく重要なポイントです。このユダヤ人たちの反応こそ、現代に生きる私たちへの重要な問題提起でもあります。愛と赦しの現場であるはずの礼拝、教会の場が裁きの場、つまずきの場となっていくことと深い関わりがあるのではないでしょうか。1~3月に渡って展開される『ルカによる福音書』の学びで問われ続けるテーマだと言えます。ご一緒に引き続き、考えていきたいと思います。
4:30 しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。
>>>初回から非常に重いテーマが提示されています。しかし、ルカは希望でこの箇所を締めくくっています。どんなに激しい逆風の中に置かれ、しばらくはその中でもまれたとしても、一番肝心な段階になると、主イエスは正面から堂々とその逆境を切り抜けたとルカは語ります。このお方こそ復活された主イエスです。そして、今も信仰者と共に歩んで下さる救い主であることに希望があります。