創世記49章28~33「祝福のうちに」
総合テーマ 神の祝福のうちに生きる
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちの弱さを用いて御業を行われる神様
・今月のみことばの学びの視点…その2 神様が与えようとされている祝福とヤコブが求めようとする祝福の違いに目を向ける
黙想のポイント
1.ヤコブが父イサクから受けた祝福とヤコブが自分の子どもたちに授けた祝福にはどんな違いがあるでしょうか。その違いに着目してみましょう。
2.今月の視点を通してこれまでの学びを振り返ってみましょう。
前回の33章から今回の49章直前までのあらすじ
ヤコブ物語はその後35章で終わり、36章にはエサウの系図、そして37章からは一番長いヨセフ物語が最後の50章まで続きます。その中でヤコブは12人の兄弟の中でヨセフを特別に愛した人物として登場します。しかし、そのことがかえって他の兄弟たちにヨセフが妬まれる原因となり、結果ヨセフは奴隷としてエジプトに売られていくことになります。やがてヨセフはエジプトで王様の信頼を勝ち取り、エジプトで王に次ぐ大臣に登りつめます。その後世界的飢饉が訪れ、ヤコブ一族はヨセフの計らいでエジプトに身を寄せることになります。そしてヤコブは老齢となり、とうとうエジプトで人生の最後を迎えることになります。その時の話しが48章から始まり、今回の49章の話しへと続きます。かつて、父イサクから祝福の祈りを授けられたヤコブでしたが、今度はヤコブが子どもたちに祝福を授ける番になります。果たしてそれはどんな内容だったでしょうか。父イサクの祝福の祈り(27章25~40節)との違いを念頭に置きながら御言葉に聞いていきましょう。
今回の聖書箇所
49:28 これらはすべて、イスラエルの部族で、その数は十二である。これは彼らの父が語り、祝福した言葉である。父は彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。
49:29 ヤコブは息子たちに命じた。「間もなくわたしは、先祖の列に加えられる。わたしをヘト人エフロンの畑にある洞穴に、先祖たちと共に葬ってほしい。
49:30 それはカナン地方のマムレの前のマクペラの畑にある洞穴で、アブラハムがヘト人エフロンから買い取り、墓地として所有するようになった。
49:31 そこに、アブラハムと妻サラが葬られている。そこに、イサクと妻リベカも葬られている。そこに、わたしもレアを葬った。
49:32 あの畑とあそこにある洞穴は、ヘトの人たちから買い取ったものだ。」
49:33 ヤコブは、息子たちに命じ終えると、寝床の上に足をそろえ、息を引き取り、先祖の列に加えられた。
◆父イサクの祝福の祈りの特徴…27章27~28節
・内容…①豊作(穀物・葡萄酒=財産分与)と②指導者の継承権(兄弟間、民族間)と
③神の加護(祝福とのろい、創世記12章3節のアブラムへの神の約束が起源)
・イサクの財産を相続させる特別な祈りによる儀式であった。37節参照
・食事と祈りをして取り交わされる契約の儀式であった。…起源は祭壇を築いて犠牲を捧げる
・それはたとえ本来兄のエサウに授けられるはずの祝福の祈りを弟が策略を持ってだまし取ったものであっても、取り消すことのできない性格のものであった。
・その祝福の祈りは兄弟全員に平等に与えられるものではなく、イサクが選んだ者ただひとりだけに授けられるものであった。…そもそも、これは神のご計画の中にあった!(25章23節)
◆ヤコブの祝福の祈りの特徴
・父イサクのように財産分与に関する契約や儀式としての祈りは含まれることはなかった。
その代わりにヨセフの息子にシケムの所有地の相続を約束している。48章22節参照
・ヤコブの祈りは将来に関する預言が中心となる祝福の祈りであった。
・ただしその祈りの特徴は、幸いだけを伝えるものではなく、罪を暴いたり、不幸を預言したりするという厳しい内容も含まれていた。
・ヤコブの祈りは兄弟全員に平等になされた点でイサクの祝福の祈りの性格とは違っていた。財産分与が含まれない祈りだったからだと考えられるが、ヤコブが自分の過去を反省してわざと変えたとも考えられる。
◆ヤコブの祝福の祈りから導き出されること
ヤコブはもはや自分に都合のいいように祝福の祈りをしようとはしていません。財産分与を祝福の祈りに含めてもいません。1節にあるように「わたしは後の日にお前たちに起こることを語っておきたい。」と述べ、いい内容であれ、厳しい内容であれ、神の預言者として忠実に預言しています。
かつては神の祝福の意味を理解できずにいたヤコブでしたが、今では自分の子どもたちに対する神の視点に立ったそれぞれにふさわしい祝福の祈りを授けることができるようになっていました。ヤコブの信仰の集大成がここへ来て見え始めています。もはや老齢となり、目がかすんで見えなくなっていたといいます。父イサクの時と似ています。しかし、ヤコブの信仰の目は子どもたちの将来にまでしっかりと向いていたようです。
祝福とは、その人の幸福に関係するものだと私たちは考えます。しかし、28節では「彼らを、おのおのにふさわしい祝福をもって祝福したのである。」と語っています。将来に待ち受けるであろう試練も、罪を指摘して悔い改めを促す言葉も、聖書はこれらが祝福だと言うのです。そしてヤコブもそのように自覚して祈ったと考えられます。ヤコブの人生は常に試練の連続でした。自己中心的な生き方から多くの罪も犯しました。しかし、ヤコブは自分の弱ささえも神に用いられて来たことを生涯を振り返って理解していました。48章15~16節で「わたしの生涯を今日まで/導かれた牧者なる神よ。わたしをあらゆる苦しみから/贖われた御使いよ。」と祈っています。どのような時もベテルで神が彼に約束されたように決して見捨てることなく、ヤコブの人生に寄り添い続けて下さる祝福の神にヤコブは気づくに至ったのです。ですから、子どもたちの未来にたとえ、神への反逆や厳しい試練が待ち受けていることが分かっていても、神が今度は彼らに寄り添い続けて下さることを信じることができたのだろうと思います。ようやくイスラエルという名の意味、つまり神が「闘って下さる」、「神が寄り添って下さる」という意味が理解でき、神に後のことを委ね、寄り頼む信仰を持つに至っているのを見ます。
ヤコブは最後まで多少の依怙贔屓をしています。ヨセフの子どもたちにはより多くの財産を残していますし(48章22節)、創世記の最後の数章はおもしろい具合にヤコブ・イスラエルという名が入れ替わり立ち替わり出て来ます。ヤコブの信仰が最後まで揺れ動いていることを象徴しているかのごとくに。ヤコブのしたたかさ、頑固さ、そして神の御前で揺れ続ける信仰はその後のイスラエルの歴史そのものであり、今日まで続いているのではないでしょうか。しかし、神も今日まで神の民を決して見捨ててはおられないのです。
33節でヤコブは自分の足を寝床の上でそろえたことがわざわざ表現されています。ペヌエルの闘い以来、障害を負った足を手で揃える必要があったことがここでも伺えます。また、自分の困難に満ちた生涯を振り返りながら足をそろえたとも考えられます。ヤコブにとって、足は神が与えられた自分への祝福に通じる弱さと困難を象徴する足だったのではないでしょうか。それをそろえて永遠の眠りに就いたヤコブ。感慨深いものがあります。
おな、今回の聖書教育誌が指摘しているように。最後に「先祖の列に加えられた」と言う表現の中に主との生きたつながり(114ページ)を見出している視点も素晴らしいと思います。