創世記33章1~20「顔と顔とを合わせて」
総合テーマ 神の祝福のうちに生きる
・今月のみことばの学びの視点…その1 私たちの弱さを用いて御業を行われる神様
・今月のみことばの学びの視点…その2 神様が与えようとされている祝福とヤコブが求めようとする祝福の違いに目を向ける
黙想のポイント…メッセージを読む前に、各自で次のことを黙想してみて下さい。
1.3節で7度地面にひれ伏しながら兄に近づいていく弟ヤコブの姿を想像して見ましょう。
2.ヤコブはどうしてエソウと和解できたのでしょうか。何が良かったのでしょうか。エソウがその後立派に成長し、寛大になったからでしょうか。ヤコブの作戦が功を奏したのでしょうか。それとも別の理由が背後にあるのでしょうか。和解がなるように神があらかじめ備えて下さった祝福があるとすればそれは何でしょうか。
◆前回の32章でヤコブが神の人と格闘したペヌエルでの闘いを通して、3つの変化がヤコブに起きています。その内の一つはその後のヤコブの生涯を決定的に変えるものでした。そして恐らくその変化こそ神が兄エソウとの和解を促すために授けられた決定的な変化だったと考えられます。それは何でしょうか。
変化の一つはヤコブが家族の最後尾についていたのが、その後はヤコブが家族よりも前に進み出て兄のエソウに会うことを決断したことです。ただし、その隊列を見るとヤコブの依怙贔屓が歴然と見えています。3位が傍たちとその子どもたち、次がレアとその子どもたち、そして最後がラケルとその息子ヨセフという具合でした。
二つ目の変化は新しい名前をいただいたことでした。イスラエルです。神が闘われるという意味や神に寄り頼むという意味が含まれていたと考えられますが、ヤコブはその名前をすぐに用いることはありませんでした。ヤコブは祖父アブラハムのように名前をアブラムからアブラハム(17章)にすぐさま変えることはありませんでした。そのため35章で再度、神のみ告げでイスラエルと名を変えることが語られることになります。ヤコブの生き方はその後も神に寄り頼むよりも、自分の知恵と力に全面的に頼って生きる姿が描かれています。兄との再会の場面でも、貢物を整え、7度地面にひれ伏して最敬礼の姿勢を取り、言葉遣いでも兄にへつらいます。兄と無事に再会を果たした後でも、後から兄が住むセイルに行くと約束していますが、実際にはその言葉をよそにすぐ近くのスコトにまずは滞在し、その後ヨルダン川を渡ってシケムに滞在します。その後35章では神にベテルに行って住むように言われますが、ヤコブはベテルに移動はするものの、すぐまたエフラタ=ベツレヘムからミグダル・エデルという場所まで旅を続けていきます。およそ自分のために闘われる神に信頼し、その言葉に従う様子は伺えません。ヤコブにはなおも強情で頑なに神の言葉に背いて生きる部分が残っているようです。特にベツレヘムに向かう途中で最愛の妻ラケルを難産の末に失いますが、もし神が指示されたようにベテルに住み続けたならばあるいは命を落とすことはなかったかも知れないと推測することもできます。神の言葉に従うことが一番の幸福につながることをヤコブは理解できないでいます。
それでは、最大の変化は何なのでしょうか。それは闘いの最中に右腿を神の人に打たれて、32章32節にあるように「ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。」ということでした。この出来事は33節でその後イスラエルの人々が腿の間接の上にある腰の筋を食べなくなったことから考えられるのは、ヤコブの負傷は一時的なものではなく、ペヌエルの闘い以後、生涯ヤコブは足を引きずって歩かなければならない障害を負ったと考えられます。すると兄エソウとの再会の場面を想像して見ましょう。7度地面にひれ伏しながら兄に近づくヤコブですが、ペヌエルでの格闘以前の(兄と対等に戦えたであろう)ヤコブが地面にひれ伏すのと、痛々しげに足の障害と痛みに耐えながら地面にぎこちなく何度もひれ伏すヤコブとの違いです。
兄エソウは弟と離別する前は、あらゆる点で競い合って生きて来ました。体力の差もそうなかったことでしょう。そしてすべてが彼を脅かす脅威ですらあったことでしょう。しかし、再会時に兄エソウは、もはや弟ヤコブが自分のライバルではなくなっていることを目の当たりにします。もし、闘えば、ヤコブにもはや勝ち目がないことも一目瞭然でした。弟ヤコブには、それ相応の苦労があったことがエソウに理解できた時、始めてヤコブに対して兄としての優しさがこみ上げて来たのかもしれません。エソウを弟のところへと走らせ、抱きしめさせたのは他でもありません、神の人がヤコブに与えた足の障害という決定的な弱さではなかったでしょうか。真の和解に近づけたのはヤコブの戦略や貢物の多さではなく、神が与えて下さった弱さだと言えないでしょうか。
このことから私たちは人生の途上でたとえどんなに人よりも劣った状況に立たされたとしても、神様はその私たちの弱さを用いて神の御業のために用いて下さることができるお方であることを示されます。私たちの弱さは、必ずしも私たちを不幸にするものではないということでもあります。そこに神の大いなる幸福への糸口が待っていることを信じることができる人こそ、本当の強い人なのかもしれません。