ヨハネによる福音書6:22-33
主イエスが多くの人々にパンを分け与える奇蹟をなさった日の「翌日」(22節)、人々は主イエスを「捜し求めて」(24節)動き回り、ついに主イエスを発見した。懸命に主イエスを追い求める人々の姿がここに記されている。彼らに向かって主イエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26節)と言われた。主イエスを追い求めてきた人々の多くは恐らく貧しく飢えた者が多かったであろう。それゆえに、パンを分け与えてくれる主イエスを見て、自分たちのリーダーになってほしいという願いで主イエスを追いかけてきたのである。物質的な欲求を満たすことだけを求めて主イエスを追いかけてきたという問題点を主イエスはここで指摘された。「しるし」がなされるところでは、その「しるし」が証ししているものに目が注がれなければならない。パンの奇蹟もまた、主イエスが神の御子であり、神から遣わされた方であるということを証しした。しかし人々は「神の御子、救い主」としてではなく、「自分たちの飢えを満たしてくれる人」としてしか主イエスを捉えていない。その間違いをここで主イエスは示されたのである。「たくさんになったパン」だけを見ているならば、我々は主イエスがどのような方であるのかを知ることができないのである。主イエスは「しるし」を「信仰の目」で見るように願っておられる。その時、我々は自分たちの「救い」を見ることができるからである。
主イエスは続けて「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」(27節)と教えられた。「朽ちる食べ物」とは、「肉体を養う食物」「生活に必要なもの」を指す。それらは生きていくためには欠かせないものであるが、いつの間にかなくなってしまうものでもある。それでは主イエスは「貧しさや飢えの問題はどうでもいい」とおっしゃっているのではない。主イエスもまた、貧しい家庭に育ち、貧しさの憂いをよくご存知である方としてこの世を生きられた。公生涯の始まりにあたり、荒野で悪魔の誘惑を受けられた時(マタイ4:1-11ほか)、悪魔は空腹の主イエスに「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ」と誘惑した。悪魔がこのような誘惑をしたのは、空腹を覚えられた主イエスの心に「この石がパンになったらいいなあ」という思いがあったからであろう。満腹の者に対して悪魔はこのような誘惑をしない。しかし主イエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」と、御言葉をもって誘惑を退けられた。確かに「パン」は生きるうえで本当に必要なものであるが、「物質的な充足」が生きることの目的になってしまっては、本当の意味で生きることにはならない。「物質的な充足」だけを追い求めている限り、我々の内に「不安」「心配」がなくなることはない。本当に大切なことは「永遠の命を得ること」「神の言葉によって生きること」である。我々の必要を含め全てを知っておられる全能の神に信頼することによって「永遠の命」を得ることができる。そのような生き方の幸いを主イエスはここで語っておられるのである。そのように神に信頼する者を、神がお見捨てになることはない。我々は神との関係の中で、必要なものを神に求めればよいのである。「主の祈り」においても、主イエスは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りを教えてくださっている。
語ることと「しるし」を通して、天の父なる神の恵みをお示しになった主イエスこそが「永遠の命に至る食べ物」である。それはこの世の物質としての「パン」ではなく、上から与えられる「永遠の命のパン」である。「命」とは「ヨハネによる福音書」に何度も登場する語であるが、「永遠の命」を指す時の「命」という原語は「ゾーエー」、「肉体の命」を指す時の「命」という原語は「ビオス」、というように区別して用いられている。肉体的な命を維持することは大切であるが、物質的な「パン」だけで生きるのでは、本当の意味で「生きる」ということを全うすることができない。我々が神を信頼し神の内にあって生きることができるように、主イエスは天から「命のパン」(35節)として降ってこられたのである。「永遠の命」は「人の子」主イエスが与えてくださるものであり(27節)、「思い煩い」「罪」「死」から我々を解放する「命」である。「父である神が、人の子を認証されたからである」(27節)とは、父なる神が主イエスに「罪と死に勝利する永遠の命を人々に与える」という働きを「委ねられた」(口語訳)という意味であると理解したい。
「働きなさい」(27節)と命じられ、人々は「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」(28節)と尋ねた。原文において、この人々の言う「神の業」(28節)は複数形になっている。彼らの念頭には「律法に記されている様々な行い」があったことであろう。「神に受け入れられるには、どんなことをどれだけたくさんしなければならないのか」という発想を持って彼らは問いかけた。すると主イエスは「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」(29節)とお答えになった。この「神の業」は単数形で書かれている。神に受け入れられるためになすべきことはただ一つ、「わたしを信じることだ」と主イエスは言われたのであり、これは『新約聖書』の語る最も大切なメッセージである。主イエスを信じることにより、我々は神との関係の中に生きることができるようになるのであって、主イエスは「神」と「わたし」の仲保者となってくださるのである。パウロも様々に、神から「義」と認められる、すなわち神との正しい関係に入れられるのは「信仰」によるのだということを語る(cf., ローマ3:28)。善い行いをすることによってではなく、「信仰」によって神につながり神に依り頼み祈っていく中でこそ、我々は神に喜ばれる「聖霊の実」を結び、聖霊によって神の御心を行う者にして頂くことができる。「行い」が先ではなく、「信仰」が先である。
すると人々は「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか」(30節)と言い始め、モーセの例を持ち出した(31節)。「あなたが天から遣わされた者であるという証拠を見せろ」ということである(cf., Ⅰコリント1:22)。なお人々は「飢えを満たすパン」だけを求めているのである。そのような人々に対し、主イエスは「永遠の命」という「神のパン」(33節)を求めるよう教えられた。我々が生きる限り、様々な意味でこの世の肉体を支えるための物質的なもの(衣食住)が必要となる。しかしそれだけを見ていると、たとえどんなにそれがたくさんあっても決して満足することはなく、常に飢餓感がつきまとう。そのような我々の在りようを主イエスは知っていてくださった。そしてそのような中で「神を信じなさい」「わたしを信じなさい」と語りかけてくださるのである。