2025年6月22日(日)
主日礼拝 礼拝宣教要旨
聖書箇所:フィリピの信徒への手紙 3章10-14節
「わたしは、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」
フィリピの信徒への手紙3章10節
使徒パウロは、復活の命について語る中で、それが単なる死後の希望ではなく、今この地上でキリストと共に歩む生き方であることを示しています。「沖縄命どぅ宝の日」を覚える本日、私たちは「命こそ宝」という沖縄の人々の切実な願いと、パウロの語る復活の命が深く響き合うことを覚えたいと思います。
第一に、パウロは「復活の命の意味」を明らかにしています。復活とは、キリストの苦しみにあずかり、その死の姿に同じ形にされながら生きることです。ガラテヤ書でパウロが出会った復活のキリストは「十字架につけられ給ひしままなるイエス・キリスト」でした。栄光に包まれた姿ではなく、十字架の苦しみを引き受けた姿のままのキリストです。復活の命に生きるとは、この世において神の愛と平和を体現する生き方を意味するのです。
第二に、パウロは「目標に向かって走る」姿勢を示しています。「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」と告白しつつ、「目標を目指してひたすら走る」と語っています。これは個人的な努力ではなく、共同体として神の国の実現に向かって歩み続けることです。沖縄の人々が80年間「命どぅ宝」の精神を大切にし続けているように、私たちも完全ではなくとも、すべての命の尊さを認識し、平和を築くという目標に向かって歩み続けるのです。
第三に、パウロは「キリストに捕らえられた」恵みを証ししています。復活の命を追い求める理由は、まず神がキリストによって私たちを愛し、捕らえてくださったからです。この体験は、自己中心的な生き方から神と隣人への愛に生きる生き方へ、分断と対立から和解と平和への道へと私たちを変えていきます。「命どぅ宝」の精神も、戦争の悲惨さを体験した人々が、それでもなお命の尊さを信じ続けることから生まれました。
現代社会において「復活の命に生きる」とは、心の中にある偏見や差別と向き合い、異なる背景を持つ人々との間に橋を架け、環境問題や社会正義の問題に「命どぅ宝」の精神で取り組むことです。それは現実逃避ではなく、この世の痛みや苦しみの只中で、キリストの愛を体現することです。戦争で失われた命への哀悼と、現在生きている命への敬意、そして未来の世代に平和な世界を手渡そうとする願い。これらすべてが、復活の命に生かされた私たちの使命なのです。