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主日礼拝宣教要旨

「嘆きの底で」 朴 思郁 牧師 

2026年9月20日(日)礼拝宣教要旨
聖書箇所:サムエル記下 18章31節-19章1節 

「わたしがお前に代わって死ねばよかった」

サムエル記下 19章1節

 先日、映画『オデュッセイア』を観ました。トロイの木馬は知恵と戦略の物語として語られますが、トロイアの人々の側から見れば、城は焼かれ、家族は殺されました。一方にとっての歓喜が、もう一方にとっては破滅です。私たちは「誰が勝ったのか」には関心を向けても、その陰で誰が泣いているのかを見失ってはいないでしょうか。他者の命を踏み台にして得た勝利は、本当の勝利なのでしょうか。
 今朝の聖書にも、戦いの終わりと勝利の知らせが届きます。ヨアブは、手柄を求めるアヒマアツを行かせず、クシュ人を送り出しました。かつて凶報を運んだ若者が命を奪われたからです。聖書教育は、ここにクシュ人がダビデ軍で差別されていたことがうかがえると指摘します。危ない役目は誰に回されるのか。差別は、違いが優劣と結びついた時に生じ、普段は無意識の偏見として私たちの内にあります。
 同じ知らせが、立場によってまったく違って見えます。アヒマアツには手柄、兵には安堵、父ダビデには息子を失った知らせでした。九十九匹の側に立つか、迷い出た一匹の側に立つかで、見えるものは変わります。王が尋ねたのは戦果ではなく、「若者アブサロムは無事か」(18章32節)でした。戦場では反逆者と呼ばれた者を、父の口は「若者」と呼びます。
 「ダビデは身を震わせ、城門の上の部屋に上って泣いた」(19章1節)。城門は王が裁きを行う公の場です。彼はそこを離れ、誰にも見られない部屋へ上りました。そこで出た言葉には順序も論理もなく、「わたしの息子」が五度、「アブサロム」が三度繰り返されるだけです。聖書教育は言います。権力者ダビデが、神としてではなく、人間としてそこにいる、と。この嘆きには悔いも混じっています。もっと早くあの子と向き合っていれば——取り返しのつかないことを前にして、人はそう思うのです。
 ヨアブは、悲しむ王を非難しました。政治的には正しい。けれども「もう泣くな」は、正しくても人を救いません。詩編にも哀歌にも、嘆きの言葉が残されています。主イエスはラザロの墓の前で涙を流されました。神は十分に嘆くことを赦されます。 
 「代わって死ねばよかった」というダビデの果たせない願いは、後の日、十字架の上で実際に成し遂げられました。この箇所に神の姿は現れません。しかし神は、勝利の報告を受ける城門の広場ではなく、王が一人で泣いていたあの上の部屋におられたのだと思います。嘆きの底にこそ、共にいてくださる方がおられます。


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