2026年3月22日(日) 主日礼拝 宣教要旨
イエスは三度目に戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
聖書箇所:マルコによる福音書14章41-42節
先週私たちは、イエス様が弟子たちと囲んだ「主の食卓」の箇所を学びました。イエス様の言葉に弟子たちは、自分の心を見つめ直しました。しかし今日の箇所では、イエス様の心を理解することができず、弟子たち三人は眠ってしまいます。人の心は鈍感で、自己認識が揺すぶられた経験をしても、古い捉え方を脱ぎ捨てるということは難しく、また、他者の苦しみを自分のこととして感じるのはとても難しいのだと思います。
一方、イエス様はご自分の十字架への道を悟られ、この杯を取り除けてください、と苦しみ悶え、祈られました。私たちも苦しい時祈りますが、神様は遠く、あまりにも人間とは違いすぎる。でもイエス様になら祈れると感じることがあります。なぜか。それは、イエス様が神の子でありながら、徹頭徹尾人間であり、ありとあらゆる苦しみを舐められたからでしょう。
水曜夜の聖書研究祈祷会で『ヨブ記』を学んできましたが、ある日突然災禍を与えられた罪なき義人ヨブは苦しみの中で、神と人間との間を執り成す「弁護人」「証人」「贖い主」、神の御心もお分かりになり、人間の苦しみもお分かりになる方を求め、叫びます。
神様は私たち人間を愛しておられる。愛しておられなかったら、どうしてご自分の愛する子にこんな無残な死に方をさせ、私たちの贖いをさせるものでしょうか。悔い改めたのにもかかわらず罪を繰り返す私たちを、その度に果てしなく赦し続けてくださる。そして人間の苦しみの叫びに応え、イエス様をこの世に送り、私たちの救い主、慰め主としてくださいました。
イエス様は眠ってしまった弟子たちを咎めず「もうこれでいい」と言われました。この「これでいい」という言葉の中に、赦しがあると思うのです。私があなたを贖う、だから私に従って来なさい、とおっしゃるのです。主に従う道は、毎日、自分の中にある古い自分との闘いです。だから私たちは、毎週礼拝をささげ、御言葉を聴き、新たにされなければなりません。人間関係やこの世の価値観の中で、主の御言葉から離れてしまうこともある、でもその度に主は赦し、今日も私たちに「立て、行こう」と言ってくださるのです。