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主日礼拝宣教要旨

「混乱の中の祈り」 朴 思郁 牧師

2025年7月13日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:民数記 11章10-15節

 民数記11章は、荒れ野のただ中で民の不平不満と神の怒りの板挟みになり、精神的に限界まで追い詰められたモーセの祈りを記録しています。この箇所は指導者の失敗の物語ではなく、危機のまっただ中にいる一人の人間の魂の奥深くを見せてくれる貴重な記録です。「混乱の中の祈り」という主題のもと、燃え尽きそうになる現代の私たちに、真の祈りとは何かを学んでまいります。
 第一に、聖書は「苦しみの連鎖反応」を示しています。民の不平不満が神の怒りを引き起こし、その神の怒りがモーセを苦しめるという連鎖が描かれています。現代においても、教会や家庭、職場で一つの不満が噂となって広がり、全体の雰囲気を蝕んでいくことがあります。しかし、重要なことは、この連鎖は必然ではなく、神はこの負の循環を断ち切る解決策を用意しておられるということです。
 第二に、聖書は「限界の告白」の重要性を教えています。モーセは「わたしには重すぎます」と正直に告白しました。これは当時の「理想的なリーダー像」を完全に放棄する革命的な行為でした。現代の私たちも「できる人」「良いクリスチャン」でいなければならないという期待に押し潰されそうになることがあります。しかし、自分の限界を認めることは、その限界を超える力を持つお方への信頼の表明でもあります。弱さを認めることは、神の働きが介入する扉を開く、最も深い信仰の行為なのです。
 第三に、聖書は「絶望の淵からの正直な祈り」を許容しています。モーセの「どうかむしろ、殺してください」という言葉は、一見不穏に聞こえますが、実は神との関係の深さを示しています。真の信仰とは、疑いや絶望がないことではなく、それらすべてを神との対話の中に持ち込む勇気のことです。どんな状況でも神との関係を断ち切らない決意こそが、強い信仰の証拠なのです。
 現代において「混乱の中の祈り」とは、自分の苦しみや弱さを神から隠すことではなく、混乱し、疲れ果てた自分自身の全てを、ありのまま神の御前に差し出すことです。モーセの正直な弱さの告白に対する神の応答は、叱責ではなく、70人の長老を立てて重荷を分かち合うという実践的で共同体的な助けでした。神の解決策は、常に「共同体」なのです。
 私たちの信仰生活の目標は、混乱のない人生を送ることではなく、その混乱のただ中で、いかに祈るかを学ぶことです。私たちの混乱は、神への障壁ではなく、最も深く神と出会う場所となりうるのです。

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