2025年5月25日(日)
主日礼拝 宣教要旨
聖書箇所:ガラテヤの信徒への手紙 5章13-14節
兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。
ガラテヤの信徒への手紙5章13節
パウロがガラテヤの信徒に語った「自由」は、単なる束縛からの解放ではなく、神の恵みによって与えられた、愛による奉仕へと向かう自由でした。これは、何者にも縛られずに好き勝手に生きることではなく、むしろ神の御心に従って生きる力としての自由です。
私たちの「普通」と感じる価値観は、多くの場合、社会的な「空気」によって形づくられています。たとえば戦時中の「新しい生活様式」は、個人の暮らしの奥深くにまで浸透し、人々に戦争への協力を強いていきました。そうした「空気」に従って生きることが、自己中心や分断を助長するのです。
そうした時代や社会の「常識」に対して、パウロは、キリストにある自由へと招きます。それは、律法主義による縛りからの解放であり、また自分の欲望のままに生きる放縦からの解放でもあります。キリストの十字架と復活によって私たちは義とされ、神の子どもとされ、愛の中に生きる者とされたのです。
「愛によって互いに仕えなさい」というパウロの命令は、一見矛盾するように聞こえるかもしれません。しかしこれは、キリスト者の自由の最も本質的な表現です。私たちは、仕えることによって真の自由を知るのです。イエス・キリストがその模範を示されました。主は「仕えられるためではなく、仕えるために来られ」、十字架に至るまで仕え抜かれました。
「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに、律法全体が要約されるとパウロは言います。これは単なる感情的な愛ではなく、他者の幸福と平和に対して積極的に関心を持ち、具体的に行動する愛です。しかもこれは、私たち自身の努力によって実践されるものではなく、まず私たちを愛してくださった神の愛によって可能となるものです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」(ヨハネの手紙一 4章19節)。
このような「愛によって仕える」生き方は、教会という共同体の中でこそ最も鮮やかに表されるべきです。私たちはそれぞれ異なる賜物と限界を持っていますが、互いに補い合い、支え合うことによって、キリストの体としての教会は豊かに機能していきます。そこには上から目線の慈善ではなく、神の前に等しく置かれた者としての謙遜と尊重があります。
一人ひとりが与えられた賜物を生かし、日々の暮らしの中で「愛によって仕える」姿を実践すること——それこそが、キリストによって与えられた自由の具体的な現れであり、神の国のしるしなのです。私たちもまたこの週、「誰に、どのように仕えることができるか」を問いながら、主の愛に応えて歩んでいきましょう。