2024年2月25日(日) 礼拝宣教要旨
聖書箇所: マルコによる福音書 12章38-44節
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている者をすべて、生活費を全部入れたからである。」
マルコによる福音書12章44節
「律法学者を非難する」という段落と「やもめの献金」という段落が続けて記されています。イエスは自ら進んで受けられようと決断した十字架の死を直前に、エルサレム神殿に入るや否や律法学者たちとの様々な論争が始まったのです。延々と繰り広げられた論争に終止符を打つため、「一人の貧しいやもめの姿」に、愛する弟子たちを招くのです。
「律法学者」とは、神を礼拝する者たちの指導者として務めを負っている人です。それが、心の内側に隠されている自分の誉れのためという力に支配されてしまっている。内側のものを覆い隠すかのように外側を取り繕うとする姿は、私たちの姿です。イエスはその「律法学者たちの姿」を嘆き、賽銭箱の前に立つ「一人のやもめの姿」を通して父なる神に対する真の礼拝する者の姿を示されるのです。神の前に立っているかどうか、神に向けて心が開かれているかどうか、神に応えて感謝と賛美と喜びのすべてをささげているかどうかと迫っておられるのです。人の心の内側と外側はつながっている。心の中にあるものが外に向かって溢れ出てくる。イエスは、その人の心を何が支配しているかを見抜いておられるのです。やもめの心の内から溢れ出てきているものこそ、神への信頼と感謝と喜びであると見て取ったのです。これから父なる神の前に自らの命を差し出す決断をしてエルサレムに歩んでこられた、十字架を直前にした「主イエスの姿」が、この「一人のやもめの姿」に折り重なって目に留められたのです。そして、イエスがこの「やもめの姿」の前に弟子たちを呼び寄せ、招いておられるのです。
私たちがささげる礼拝は、「この時、この所で」しかささげることのできない今日限りの唯一の礼拝です。 神は、私たちがささげる前に必要なもの一切を与え、満たしてくださいます。その賜物、恵みに応えて、神に感謝と賛美と喜びをささげるためのものです。神のご計画に豊かに用いられるためのものです。この「一人のやもめ」のごとく、真の礼拝としてすべてをささげるようにとイエスは招いてくださっています。