「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。」
哀歌3章22,23a節
朴 思郁 協力牧師
新年、明けましておめでとうございます。新年において、教会員の皆さまの上に主なる神の恵みと祝福が豊かに注がれますよう心からお祈り申し上げます。新年礼拝を捧げるに当たり、哀歌を通して、今年一年を生きる心構えを整えることができればと願います。本日の聖書の背景になる預言者エレミヤ時代のイスラエルの状況は、今日の状況に似ていました。イスラエルは、神の前に罪を犯してしまい、神に背くことを繰り返した末に、紀元前586年にバビロン帝国によって滅ぼされます。エレミヤは、廃墟になった祖国イスラエルと都エルサレムを前にして、流れる涙を止めることができませんでした。
確かに人間的に考えると、預言者エレミヤは、絶望しても決しておかしくない状況に置かれていました。しかし耐えきれないほどの苦しみの最中で、涙ながらに苦しみもがいていたエレミヤにとって、絶望から希望へと大転換が起こりました。彼は、苦しみながらも、神を仰ぎ、絶望の暗闇を越して差し込んでくる希望の光に気付かされたのです。それによって、悲嘆と絶望の中にある人々に向かって希望を歌い始めます。彼は、これまで「涙の預言者」と呼ばれましたが、これからは、「希望の預言者」として、人々の前に立つのです。
決して崩れ落ちることなく、尽きることのない希望の唯一の根拠は、三位一体の神以外にはありません。それゆえ、私たちは神を仰ぎながら生きていかなければなりません。それを預言者エレミヤは、「『主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。」(哀3:24)と言います。預言者イザヤも、「主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザ40:31)と言います。「鷲のように翼を張って上る」とは、私たちの信仰のあり方を示しているように思われます。つまり、私たちの信仰の両翼は、御言葉と祈りであることです。御言葉に基づいて、祈りをもって、信仰の向上のために大空に羽ばたくのです。
新年を迎えて、私たちを取り巻く環境ばかりに気を取られてしまうと、依然として、暗闇に覆われているように思われます。これからどうなるだろうと不安が漂っています。こういうときこそ、私たちは周りに目を向けるのではなく、神を見仰ぎ、神の真実さにより頼むことが求められます。それによって、今まで感じられなかった希望の光に気付かされ、新たな力が心の底から湧いてくる経験をすることができるでしょう。今日から始まる一年の歩みが主なる神によって祝され、希望の歌を歌いつつ、主と共に歩む日々でありたいと願います。
アイキャッチ画像 Unsplashのfrank mckennaが撮影した写真