「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」
詩編62編2節
西川口キリスト教会 M.I
詩編62編は、息子アブサロムの反逆の時にダビデによって書かれた詩と言われています。ダビデは孤立無援の窮地に立たされますが、「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある。」(2節)と歌い、神への絶対的な信頼と希望を告白しています。
「沈黙する」とは、祈りそのものです。神に祈る時、神はひたすら沈黙し、私のペースを守り、ひたすら待っています。ああしろ、こうしろとうるさく指示することなく、また、無言のプレッシャーを与えることも無いのです。だから安心して神に心を向けられるのです。神に心を向けるには、まず、自分が静まる必要があります。9 節には、「民よ、どのような時も神を信頼し、御前に心を注ぎだせ。神はわたしの避けどころ。」とあります。神の前で自分自身と向き合い、自分の状況、感情を洗いざらい主に打ち明ける。自分をありのままに明け渡すのです。ダビデ自身もそのようにして神と向き合ってきたのです。
まず、「わたしに向き合う」ことから始め、丁寧に正直にわたしに向き合い続ければ、自分自身に囚われているわたしが見える、神は私たちの祈りをどんな状態でも受け入れてくださいます。そしてこの全面的受容は神が一貫して私たちに示しておられる姿勢です。神はひとり子イエスを私たちに与えてくださいました。主イエスは私たちのためにご自分がひたすら神に魂を向けながら、沈黙された方です。そして私たちの罪のために十字架にかかってくださいました。主イエスの十字架への歩みは沈黙の歩みでした。私たちは主イエスの十字架による赦しと救いによって、生かされている者です。
沈黙して神に向かい、自分が今あるのを振り返り、正直に向き合うとき、神がどんなに私を愛し、配慮に満ちた計らいをしてくださったかが分かってきます。私たちは自分中心の方向へ引き寄せられ、何度も同じことを繰り返すかも知れませんが、そのたびに神は私を受け容れ、赦し、またがんばってみろと言ってくださっているように思うのです。「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう」その祈りのときを私たちは与えられているのです。「神にわたしの救いはある」と確信をいただいて、日々整えられて、感謝してそれぞれの場で生きて参
りましょう。
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