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主日礼拝宣教要旨

2022年9月25日(日) 召天者記念礼拝 宣教要旨

「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」

エフェソの信徒への手紙 2章14節

                  

 朴 思郁 協力牧師

 本日は、2022年度の召天者記念礼拝を教会の皆様と共に捧げることになりました。何よりご家族の方々の上に神様の慰めと励ましが豊かに注がれますようお祈り申し上げます。私たちは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」という言葉を通して、地上における主イエスの生き方を教えられます。 

 まず、一粒の麦は、土に植えられなければならないということです。自然の法則では、蒔かないところで刈り入れることはできません。それは私たちの人生にも同じように当てはまります。聖書は、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」(ガラ6:8)と言います。つまり自己中心的に生きるのではなく、神を愛し隣人を愛する生き方を促されているのです。 

 また、一粒の麦は、地に落ちなければならないということです。これはキリスト教にとって大切な生き方が示されている一つの隠喩です。神である主イエスは、神としてのその栄光を捨てられ、人の姿で世に来られました。しかも人間の弱さを抱えながら、最も弱い人間に仕えるために来られました。それが、一粒の麦が地に落ちるというイメージに示されている生き方なのです。やむを得ず、卑下を余儀なくされるのではなく、自ら進んで、人々に仕えるために、低い立場になる謙虚な姿勢を気付かされるのです。 

 そして、一粒の麦は、死ななければならないということです。一粒の麦は、死ななければ一粒のままですが、死ねば多くの実を結びます。確かに死ぬということは、今まで経験したことのない局面を迎えることです。それは、今まで慣れ親しんでいた状況にとどまることではなく、新たな局面に移り変わることです。もし新たな変化を恐れて、そのままとどまろうとすれば、そこで実を結ぶことはできません。恐れと不安を抱えながらも、勇気をもって、自分を明け渡すときに、そこにはじめて新たな出来事が起こるのです。 

 人生の四季に生きるとは、単なる年齢による段階だけを意味することではありません。それは、「一粒の麦」のイメージに示されている「人生の四季」に生きることです。それは、時間の長さによる区分ではなく、一粒の麦が地に落ちて、死ぬ、そして新たな形に変えられ、多くの実を結ぶ。その過程が、私たちが一粒の麦から学ぶ「人生の四季」なのです。果たして私たちはどの段階に生きているのでしょうか。 

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