「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につなが
っていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」
ヨハネによる福音書15章5節
西川口キリスト教会 石井 鉄也
イエス様というぶどうの木につながって結ぶ「実」とはなんでしょうか?
ガラテヤの信徒への手紙 5 章 22~23 節では、「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。」とあります。農夫である神様は、私たちがこのような豊かな実を結ぶことを期待しています。5 節は、我々信仰者とイエス様とのあるべき関係を表しています。つまり、イエス様というぶどうの木にしっかりつながることで我々は豊かな実を結ぶことが出来るのであります。しかし、我々は信仰を持ち、イエス様とつながっていたいと願いながら、実際の生活の中で、信仰に向き合う時間があまりにも少ないのではないかと思います。イエス様と「つながっている」ために必要なことは、イエス様の声に耳を澄まし、多くの時間を共に過ごすということです。神様は、イエス様と「つながる」ことで我々が多くの実を結ぶことを期待していらっしゃいます。
5 節はまた、イエス様というぶどうの木に、複数の枝が共につながり、それぞれの枝が豊かな実を結んでいく、つまりイエス様を中心とした群れである教会のあり方について語られているともいわれます。イエス様を中心とした教会での交わりによって共にイエス様というぶどうの木に連なって豊かな実を結ぶことが出来ることを語っています。
「つながっている」というのは「そこにとどまる」という意味であります。我々が今日の聖書の箇所を通じて考えなければいけないのは、ただイエス様を救い主と信じてイエス様に向き合って生きていくことが、イエス様につながっていることなのです。それは簡単なようですが、本当にそのような生き方が出来ているかと言えば難しいのではないかと思います。改めて、このぶどうの木のたとえを拠り所に今週一週間イエス様につながっている自分でありたいと思います。