「主は多くの民の争いを裁き/はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。」
ミカ書 4章3節
朴 思郁 協力牧師
平和を覚える8月を迎えて、ミカ書から神が望んでおられる世界についてご一緒に考えてみたいと願います。私たちが本日のミカ書から教えられる「真の平和を願う」とは、何を意味するのでしょうか。
まず、真の平和は、必ず神によって成就するということを確信することです。聖書は「終わりの日に/主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち/どの峰よりも高くそびえる」(1節)と言います。「終わりの日」というのは、一般的に世界の終末、破局を意味する言葉として理解されます。しかしミカが示している意味は、それとは異なります。つまり、「終わりの日に」とは、現在の世界とは質的に区別される、新しい時代を意味しているのです。それゆえ、私たちはこの世における平和を諦めることができないということです。それが何時になるのかは分かりませんが、神の約束は必ず実現すると信頼するということです。
そして、神の御心が実現するために、私たちは神の御言葉を知らなければならないと知覚することです。聖書は、神の御心が行われるところには、「主は私たちに道を示される、私たちはその道を歩もう」と言います。御言葉を学ぶことによって示される道を通して得られることを、「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる」と言います。私たちは、この世の論理、世の中にあふれている情報に振り回されることなく、できる限り冷静に御言葉によって、この世の情勢を見抜いていかなければならないのです。
また、神の裁き、すなわち神の支配が、真の平和を可能にする基礎になると信頼することです。本日の聖書には、「彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする」と神の平和が実現する様子について示しています。神の裁きとは、国と国、民族と民族との間の葛藤を平和な方式で仲介することを意味します。ミカは、そのような幻の根拠は、自らのものではなく、神によるものであることを「万軍の主の口が語られた。」とはっきりと示しています。御言葉こそ、神の平和が実現することの根拠なのです。
確かに、厳しい現実を目の当たりにしている中、神の平和を語るということは、あまり説得力のない、無力な話のように聞こえるかもしれません。しかし平和の源である神に信頼しつつ、「真の平和を願う」心をしっかり保って、私たちが生きている至るところで、自分の最善を尽くして、「平和の道具」として歩んでいきたいと願います。
アイキャッチ Andreas ZimmermannによるPixabayからの画像