「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。」
マタイによる福音書25章15節
松見 亨子 師(恵泉バプテスト教会 協力牧師)
「それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントン」。そう聞いて「この主人は不公平だ」と感じるかもしれません。しかし1タラントンでも6000デナリ。1デナリは当時の一日分の給料に相当するので、単純計算で6000日間、20年間も食べていける大金です。そして主人はそれぞれにタラントンを預けただけで、これで商売をしろとも、これを元手にして儲けるようにとも一言も命じていません。預けられたお金の額が突拍子もなければ、その主人の大金を預けられたしもべたちが命じられてもいないのに、なんの躊躇もなく出て行って商売をすることもまた、現実の世界では全くの常識外れです。むしろ一般社会で言えば、1タラントンを預けられた人の反応こそが最も現実的で常識的だと考えることもできます。1タラントンを穴に埋めてしまえば、確かに増えることはないけれど減ることもない。彼がしたことは預かった主人のお金を預かったそのまま保管しておくという、ごく当たり前のことです。それなのに、この話の最後に主人から叱られ、追い出されるのはこの人です。
それはもちろん、この話が「天の国」のたとえであるということと切り離して考えることはできません。そこでは主人である神さまは平気でしもべたちに途方もない財産をお預けになるし、しもべたちも、それを用いることに躊躇する必要はありません。主人を怖がって、損をしたらどうしようとか、勝手に使って怒られないだろうかと心配することもない。むしろ意気揚々と出て行って他の人たちと出会い、その関係性の中でこれを適切に用いることこそが、ほかならぬ主人が一番喜ばれることであると信じて疑わない、そのような強い信頼関係があるということです。そう考えると、ここで言われる「商売」というのもおそらく、いわゆるこの世的な「金儲け」、とりわけ誰かから不当に巻き上げるような形で自分だけが得すればよい、儲かればよいというような質のものではありえないとも考えることができます。出て行って誰かと出会う、その間で交わされるものが、お互いの助けになるし、元々持っていたものをさらに大きなものとする。そもそもこのたとえ話に、「損をした人」が出てこないこと、それもまた儲けたり損したりが当然のこの世の商売とは全く違う、「天の国」のありようが描かれている証なのではないでしょうか。
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