「イエスは言われた。『恐れることはない、行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」
マタイによる福音書 28章10節
篠谷輝俊 牧師 (新潟主の港教会 協力牧師)
新共同訳聖書の28章 1 節には、「週の初めの日の明け方」と記されています。口語訳聖書でも新改訳聖書でも同じです。「明け方」、東の空にようやく光が差し込みはじめ、今の今まで真っ暗で、あたりの景色も見分けることのできなかった世界が、うすぼんやりと、かすかに見分けることのできてくる、そんな時が訪れるころではないのか? 朝が、今まさに明けようとしている、そんな微妙な5分から10分くらいの間のことでしょうか? 昔から私は、そのように想像し、この部分を読みたい、と思っていました。
「朝は未だ来ていない」、しかし、あとわずかな時で、「明けようとしている」、そんな夜明けの時・・・・・。
聖書を読むとき、私は、この部分を、「朝未だ来の頃」「朝未だ来の時」と敢えて読んでいました。
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私たちも、愛する人の墓に急がずにはおれない、あるいは、墓の前から立ち去ることができない、そんな経験をしたことがあると思います。愛する人を失うことを経験した人なら、誰もが理解できることです。
ユダヤ教の安息日が終わり、日曜日の夜明けを待ちわびるようにして、真っ先にイエスさまのお墓へとんで行った者は、他ならぬ二人のマリアでした。そして、そこに地震が起こります。
マタイ福音書のイエスさまの最後の場面には、地震の記述は、この箇所と、もう一箇所、27章51節にも記されています。つまり、イエス・キリストが息を引き取られた時と復活なさった時に、地震があったと記録されているのです。
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私たちの人生には、全く予想しなかったこと、考えもしなかったことが、突然起こります。それは自然現象としての地震ではなくとも、私たちの人生を、大地震のように揺さぶっていきます。私たちの世界、あるいは私たちの人生の土台というのは、私たちが考えている程、不動のものではない。まさに私たちの生きているこの世界を、この人生を、その土台から揺さぶるような出来事、天地がひっくり返るような出来事は、いつ起こってもおかしくはないと言えるのです。
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私たちキリスト者が信じるイエスさまのご受難のとき、私たちがイエスさまから示されていることは何なのか? 今日は、そのことに思いを深く馳せてみたいのです。