「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです。ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。」
コリントの信徒への手紙一8章1節
朴 思郁 協力牧師
本日の聖書は、教会共同体における価値に関する内容になります。言い換えれば、教会のものさしは如何なるものなのかについて考えることができる内容です。とりわけ本日の聖書の背景になるコリントの教会は、様々な問題に直面していました。その中の一つは、教会員の間で食べ物をめぐる意見の違いによる論争でした。具体的には、偶像に供えられた肉を食べても良いのかということでした。
ご存知のように、当時のコリントの社会はギリシャ神話に現れているように神々を拝む多神教の社会でした。コリントにある神殿では神々を拝むために偶像に捧げ物が供えられました。そして偶像に捧げ物として供えられた肉は、神殿礼拝が終わると市場に流されて、売られていました。聖書学者によると、おそらく殆どの市場で販売していた肉は神殿礼拝で供えられた肉だったと言います。そういうわけで、教会員の間には、偶像に供えられた肉をめぐって議論が生じていたのです。
パウロは、コリントの教会が抱えている問題の本質を見抜いていたのです。そして、キリストの体なる教会が、どんな共同体であるべきか、そのために何を大切にすべきかをはっきりと示しているのです。それは、本日の聖書箇所の1節にある「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」という言葉が明確に示していると思われます。要するにパウロが大切にするのは、信仰の正しさと厳格さそのものであるかのように思われがちですが、パウロは徹底的に他の人々に対する思いやりを何より優先しているのです。
教会は、神の真理を宣べ伝えなければならない使命を持っているがゆえに、常に正しさと厳格さを大切にしなければならないのは言うまでもありません。そのために教会と関連する事柄において、知識が中心となってしまい、その知識のものさしで、何もかも判断したり、さばいたりする場合もあります。しかし、教会が知識より大切にしなければならないのは、自分と違う考え方を持っているほかの人々の立場に立って考えてみることです。それをパウロは他者に対する愛と言います。他者の立場に立って、物事を考えること、それはほかならぬ、キリストの十字架の精神を実践することにほかならないのです。果たして、私たちのものさしはいかなるものでしょうか。
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