イザヤ書12章1 -3節
西川口キリスト教会 石井 鉄也
紀元前 740 年頃、預言者として召命を受けたイザヤは、神により頼まないユダ王国や多くの民への不信、 絶望、そしてユダ王国への神の激しい怒り、滅びの審判を預言する一方、私たちが罪を認め、神の前に悔い改めていく時、罪からの解放と救いがあることも預言しています。私たちは、この救いに対して、心からの感謝 をささげることが必要なのです。
「わたしは、信頼して恐れない」とあります。これは、罪を認め、神による救いを受けることによる神への信頼の表れと言えます。時代や自身の境遇がどのように変わろうと、神を信じ、神の救いの中に歩むものは神 を力として生きるものなのです。そして、神を力として歌う歌は、日々の暮らしの中で神を褒めたたえる歌で あります。しかし、人間は一方で、誰しもが神以外の目に見える力に拠り頼もうとし、その拠り頼むものにつ いていつも悩まされているという経験をしています。しかしながら、「主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救い」という御言葉を拠り所として生きていくことが我々の信仰であるといえるのでしょう。この短い聖書 の言葉の中に、人間の弱さや人間の罪への神の怒り、人間の悔い改めによる神の慰め、そして我々が受けることの出来る神様からの尽きることのない恵みという多くのエッセンスが預言者イザヤによって語られているのです。私たちは、この救いの事実をただひたすらに受け続けていくのです。そこに私たちがイエス様を主と信じるものとしての日々の歩みの全てがあるのです。