詩篇112編1-2 節
朴 思郁 協力牧師
詩編 121 編は、イスラエルの巡礼者が礼拝のために神殿に上る際に歌う詩編と言われています。神殿に上 る巡礼者たちは、丘が見えたり、山が見えたり、またいろいろな建物が見えたりする風景を見渡しながら、こ の詩編を歌っていたと思われます。地理的に言えば、エルサレムは、海発 800 メトール地帯に築かれている 都でした。そして、都の東西南北は山々に囲まれていました。エルサレムは、天然の砦とも言えるほど地政学 的な特徴を持っているのです。それは、外部からイスラエルを脅かす敵による侵略からイスラエルを守ってく れる役割を果たしていたということです。
イスラエル民族は、出エジプトから統一王国の 2 代目の王であるダビデ王に至るまで神殿を持っていません でした。イスラエル民族にとって、主なる神は、ある場所を定めて儀式を整えて拝む存在というより、実際に 自分たちの命と関わっておられる方でした。何よりもイスラエルの民は、出エジプトの際に葦の海のど真ん中 に道を拓いてくださる全能の神を経験しました。また荒れ野の中でも、昼は雲の柱、夜は炎の柱で守られる経 験をしました。さらに毎朝ごとにマナを通して養ってくださる神の慈しみと憐れみを経験してきたのです。イ スラエルの民は、その生きておられる神に信頼し、生かされていることを常に覚えながら生きていたのです。
しかし、エルサレムが都として定められ、神殿が完成されてから、状況は変わっていきました。エルサレム の地理的な環境に慣れていけばいくほど、天然の砦がイスラエルの民の安全を守っているかのように思うよう になっていたのです。環境的に恵まれて、イスラエルの人々が味わっているその平凡さが如何にして守られて いるのかについて鈍くなっていたと言えるのです。そのために、詩編記者は、平凡な日常において、いかに神 が働きかけておられるかということに気づかれ、この詩編を通して、平凡な日常は、単なる自然環境から与え られるのではなく、神によって支えられていることを思い起こしているのです。
平凡な日常が保たれているのは、天然の砦に囲まれているからと誇るのではなく、昼も夜もまどろむこと も、眠ることなく、私たちを見守ってくださる方のおかげであることを覚えなければならないということを促 しているのです。平凡な日常が続いているのは、主なる神が私たちを心がけていてくださるからであることを 思い起こさせているのです。その主なる神が、私たちの平凡な日常において、「足がよろめかないように、まど ろむことも、眠ることもなく」私たちを見守り、支えてくださることを感謝しつつ、それぞれの人生の旅路を 歩んでいきたいと願います。