朴 思郁 協力牧師
ルカによる福音書 4章18-19節
本日は、平和を覚える「平和主日」として守っています。新約聖書には、平和という言葉は、100回ほど出てきます。「あなたがたに平和があるように」(ルカ24:36、ヨハネ20:19、21、26)とか、「平和の源である神」(ローマ15:33、16:20)などは、平和という概念が新約聖書において如何に大切であるかを示しているのです。さらに聖書の至るところで、神は「平和の神」として、イエスは「平和の王」として、聖霊は「平和の霊」として書かれているのです。
本日の聖書は、イエスがご自分の故郷であるナザレを訪れた時に起きた出来事です。ルカによる福音書の流れの中で、本日の聖書の箇所は、イエスが荒野での誘惑を受けた後の出来事となっています。ルカは、この出来事をイエスの公生涯の最初に位置付けました。公生涯を始められるイエスの公生涯の目的を表しているのです。イエスはイザヤ書61章を通して、その時代を懸命に生きていた人々のために、ご自分がなさろうとするお働きを示されているのです。
当時、ローマ帝国の軍事的優位に基づく政治的平和である「パックス・ロマーナ」、すなわち「ローマの平和」という支配のもとで生きていた人々に、イエスは、平和の王として来られ、十字架の死によって平和を成し遂げられた真の平和、すなわち「イエスによる平和」を伝えられました。イエスは、「その十字架の血によって平和を打ち立て、地にあるものであれ、天にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロサイ1:20)。
私たちが覚えなければならないのは、「私たちの平和である」(エフェソ2:14)キリストの体として、わたしたちは有機体的な共同体を築いていること、教会は「イエスの平和」を表す共同体であるということです。私たちは神に赦された一人ひとりとして、神との和解の恵みを頂いた群れとして、キリストの平和によって成り立っている共同体なのです。私たちがこの世に存在する意味は、そのキリストの平和を伝えていくためであることを覚えていきたいと思います。
アイキャッチ画像 Gerd AltmannによるPixabayからの画像