「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」
ヨハネによる福音書20章21節
4月は年度の始まりですが、イエス様の受難と死の意味を覚えつつ、そして復活をお祝いするイースターがあるため、私たちそれぞれの信仰の姿勢を整えるときでもあります。本日の聖書から「復活の主と共に生きる」ことの意味についてご一緒に考えることができればと願います。
まず、主イエスの存在を喜ぶことです。弟子たちは、「週の初めの日の夕方、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」と言います。弟子たちは、すでに、マグダラのマリアから復活された主イエスに出会ったという報告を受けたにもかかわらず、自分たちに襲いかかってくるかもしれない危険にさらされて恐れていたのでしょう。そこに復活の主が現れたということです。緊迫した状況の中で、弟子たちは、はじめて復活の主に出会う体験をするのです。恐怖にさらされ、怯えていた弟子たちにとって、復活の主に出会う体験は、なんと驚くべき経験であり、いかに幸いなことでしょう。
また、主イエスが言われたことを覚え、それに従って生きることです。恐怖にさらされていた弟子たちに対する主イエスの第一声は、「あなたがたに平和があるように」でした。弟子たちに最も必要だったのは、他ならぬ、主イエスから与えられる平和でした。その平和の根拠は、何よりも主イエスが成し遂げてくださったこと、すなわち、主イエスが復活によって罪と死の勢いに打ち勝ったことです(コリント一15:54b、55)。また、主イエスの生き方に倣っていくことです(フィリピ2:6-8)。いかなる状況に置かれても、主イエスが成し遂げられたこと、そして、神の御心に徹底的に信頼していた主イエスの生き方を覚えることによって、平和を保つことができるのです。
そして、主イエスが私たちに命じることをしっかり受け止めることです。主イエスは、「あなたがたに平和があるように」と重ねて言われてから、弟子たちをこの世に遣わされます。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」という主イエスの言葉には、復活の主イエスと弟子たちとの新しい関係性が示されています。それは、他ならぬ、私たち自らの力ではなく、主から与えられる力によって生かされるということを示しているのです。つまり主イエスは、この世に遣わされて「和解のつとめ」に励むように命じられるのです。その「和解のつとめ」とは、神との和解はもちろん、人との和解、さらに全被造物との和解を含めて、昨今のミャンマーの政局をなど、世界のすべてが神の御心に喜ばれるようになることを願い求めつつ、私たちの最善を尽くしていくことなのです。
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