朴 思郁 協力牧師
だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
コリントの信徒への手紙一11章26節
イエス様の受難を覚えるレントを過ごしている中、私たちは主の晩餐について改めて考える機会が与えられています。主の晩餐に示されているイエス様の受難の意味を覚えつつ、新たな主の晩餐のあり方を試みようとしています。そのために、私たちは幾つかについて、互いに確認しておく必要があると思います。
まず、私たちが確認しておきたいことは、果たしてみんなが集まっていない主の晩餐も可能なのかということです。この一年間、ネットで行ってきた礼拝と同じく、ネットを通して行う主の晩餐も、教会に集まって行う主の晩餐と同じであるということです。パンと杯は、今までは教会の担当者が準備して下さいましたが、「非対面型主の晩餐」では、必ずしも教会が用意したものでなければならないという理解ではなく、それぞれが、主の晩餐のために、心を込めて用意することができるということです。
そして、もう一つ、主の晩餐を行う執行権は、牧師ではなく、教会がもっているという理解です。つまり主の晩餐の執行権は教会に委ねられた権限であって、私たちがネットを通して行う際に、教会から委託された執行者の司式のもと、主の晩餐を行うことができると思います。ただ、文書をもって行う場合は、各自で「主の晩餐の式文」を読み上げながら、それぞれのところで主の晩餐にあずかることができると思います。
そして、最後に主の晩餐を行う目的について考えることです。パウロは、パンを食べ杯を飲むごとに、主イエスのなさったことを再現することより、それを通してしなければならないことは、「主の死を告げ知らせる」ことと言います。それは、主イエスが十字架にかかり、死なれたことを単に記憶することではありません。イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と、ご自身がこの世に来られた目的を次のように説明されています。
今度、私たちがコロナ危機の中、新たな形で主の晩餐を行う目的は、単に今までやってきた主の晩餐を再び行うということではなく、コロナ時代において、果たしてイエス様は私たちに何を期待しておられるのかを、改めて考えるためであることを覚えることが、主の晩餐を行う意味であると思います。
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