朴 思郁 協力牧師
わたしたちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
ローマの信徒への手紙6章4節
先日の2月4日は、ドイツの神学者であるディートリヒ・ボンヘッファーの誕生日です。1906年生まれのボンヘッファーは、ナチス・ドイツの総統であるヒトラーの暗殺計画に加担した容疑で、ナチス・ドイツが敗戦する直前の1945年4月9日に死刑をされました。39歳という若さでこの世を去られたボンヘッファーは、彼の神学的思想や数々の著作を通して、今も多くの人々に影響を与えています。
本日の題とさせて頂きました言葉は、ボンヘッファーの言葉から引用したものです。実際、ボンヘッファーの言葉は「高価な恵み」より「安価な恵み」が知られています。彼は、『わたしに従いなさい』という本で、「安価な恵み」を次のように言います。「安価な恵みは、悔い改めを求めず、罪の赦しについて説教すること、教会の共同体的な訓練のないバプテスマ、信仰告白のない主の晩餐、個人的な罪の告白のない罪の赦しです。さらに弟子道のない恵み、十字架を抜きにした恵み、生きておられ受肉されたイエス・キリストのない恵みです」と言います。
パウロは、神の賜物として救いにあずかっていることだけを救いのすべてとして受け止めていることを警戒しているのです。自己中心的かつ内向きになる救いの理解を戒めているのです。パウロは「決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう」(2節)と言います。つまり神の恵みによって救われていると言いながら、旧態依然で自己中心的であるということを問いかけているのです。私たちが救われたのは、罪が赦されるだけではなく、新しいいのちに生きるためであるということです。
ボンヘッファーは、「恵みが高価な理由は、恵みが私たちを弟子の道へと呼び寄せるからです」と言います。弟子として生きるということは、イエスに従うことが人生の優先順位の最上位になるということです。常に主イエスと共に生きることを意識しながら生きるようになるということです。私たちのすべての生の営みの中で、「主イエスなら、今、ここで、どうなさるだろうか」と自分に問いかけながら生きること、それがまさに「高価な恵みに生きる」ことなのです。今週一週間の歩みが高価な恵みに満ちたときになればと願います。
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