「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
ヨハネによる福音書16-17節
西川口キリスト教会 髙松 隆幸
創世記の初めからこの世のすべては神によって造られ、自分に似せて作られた人に管理させようとしたと記されています。しかし、人は、このように神の思いに従って歩むのではなく、神に逆らうその繰り返しでした。にも拘わらず天地創造の初めからのご計画通りに、神は広いみ心で、人を裁くのではなく、憐みの心で悔い改めをお待ちでした。このような働きの根底には、16節にあるように、「その独り子をお与えなったほどに世を愛された」からに他ありませんでした。今こそわたしたちは主のもとに立ち返り、歩んで行くものでありたいと思います。幸いなことに17節にあるように、わたしたちは御子を信じることにより、御子の十字架の贖いにより裁かれるのではなく、永遠の命に生かされるのです。
わたしたちの人生の意味は、自身の性質を概念的に捉えることにあるのではなく、自分がどこから来たのかを深く感じることにあるのかもしれません。人生の大事というべき出来事は、しばしば他人の目には容易に映らないところで起こります。それは時には祈りのうちに起こります。祈る時、人はひとりになります。むしろ、一人でなければ祈ることはできないのかもしれません。祈るとは、人間の思いを神に届けようとすることではなく、ひとが沈黙のうちに神の声を聴くことだからです。
だから、色々の悩みからの解放には、神がわたしたちを愛し、慈しんでくださることを知る者でありたいと思います。わたしたちはついつい忘れがちですが、不安や疑いに襲われる時、静まって祈りをささげることが出来ればと思います。そうするときっと、神の愛に包まれ、わたしたちはいつまでも変わらない神の愛に満たされ、励まされるに違いないと思います。そのような『主に従って歩む』わたしたちの信仰の旅路でありたいと思います。