ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

2020年12月6日(日) 在宅主日礼拝宣教要旨 「か弱い存在にも」 ルカによる福音書1章46-55節

朴 思郁 協力牧師

「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」

ルカによる福音書1章47-48節

アドベントの第二週目を迎えました。主イエスの「ご降誕を待ち望む」という待降節の意味を改めて覚えつつ、クリスマスまでの時を過ごしていきたいと願っています。本日の聖書は、一般にマグニフィカットと呼ばれる「マリアの讃歌」です。今日、マリアの讃歌から私たちが教えられることをご一緒に考えてみたいと思います。
まず、神は、希望を見出すことのできない状況の中でも、私たちを顧みてくださるということです。イエスの誕生のとき、イスラエルは、ローマ帝国の植民地支配下という厳しい状況に置かれていました。そのような時代的な状況に加えて、イスラエルは、家父長制的な社会秩序の中で、男女差別が当たり前のように通用されていました。トンネルのど真ん中に閉じられているような状況の中で、受胎告知を受けたマリアの口から「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(1:47)と歌っているのです。どうしても希望を見出すことのできない状況の中にも、神が顧みてくださるということを喜ぶことにほかなりません。
また、神は、いかなる状況においても、必ずすべてを治めてくださるということです。マリアの置かれていた時代的な状況をはじめとするありとあらゆる状況は、なすすべもなく、ため息をつくしなかい、きわめて厳しい状況でした。「何から手を付ければいいのかわからない」という戸惑いの中で、マリアを奮い立たせたのは、神ご自身が戦ってくださるという約束でした。私たちを襲いかかった不安や怖れに怯えているときに、私たちは何よりも神が戦ってくださるということを思い起こすことができれば、どれほど励まされるのでしょうか。そのような信頼と、その信頼から与えられる平安を経験するアドベントを過ごしていけたらと願います。
最後に、「マリアの讃歌」を通して教えられるのは、何よりも、神は御業を成し遂げてくださるときに、他ならぬ「神の方式」を通してなさるということです。果たして「神の方式」とは、どんなものなのでしょうか。それは、神が御業をなさるときに用いられるのは、力ある者、知識のある者、自らの自信に満ちた人でもありませんでした。神の方式は、「か弱い存在」を通して、御業を成し遂げてくださるのです。私たちが自信をなくして、肩を落としているとき、神は私たちの傍らにおられ、優しく声をかけてくださることを覚えつつ、アドベントを過ごしていきたいと願います。


アイキャッチ画像 subin choによるPixabayからの画像 

関連記事

PAGE TOP