朴 思郁 協力牧師
「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ。」
マタイによる福音書14章31-33節
10月の第三週目の礼拝を皆様と共に捧げることが出来ますことを心から感謝申し上げます。教会員お一人お一人が主によって守られ、過ごされますよう心からお祈り申し上げます。イエス様がこの世に来られ、公生涯を過ごされた3年の間、いろいろな出来事が起こりました。本日の箇所は、イエスが湖の上を歩かれたことで話題になるところです。しかし聖書が伝えようとする核心的なメッセージは、嵐と波に悩まされておびえてた弟子たちに対して、イエスが「信仰の薄い者たちよ」と言われたことです。言ってみれば、「信仰の欠如」、または「薄い信仰」が主な話題でした。
「信仰の薄い者」という言葉は、ペトロに信仰がないという意味ではありません。厳しく叱っている言葉でもありません。ペトロは信仰がないわけではなく、薄かったというのです。もしペトロに信仰がなければ、最初からイエスの弟子として生きることを諦めなければならなかったはずです。要するに、弟子としての信仰を持ち続けることが難しいということです。確かに弟子たちはイエスに対する信仰がありましたが、反面、今すぐ自分たちに襲いかかってくる嵐と波に対して反応せざるを得ませんでした。それがほかならぬ聖書の言っている「信仰の薄い」という意味なのです。まさに「懐疑と信仰のはざまで」悩まされているのです。
果たして私たちは如何にして、現実の嵐と波の中で、疑うことなく信仰に生きることができるのでしょうか。結論から申しますと、そのための完全な解決策や秘訣などはないと思います。私たちができることは、自分の最善を尽くしていくことと思われます。それは、懸命に祈ることや、熱心に伝道したり、奉仕をしたりすることを意味するのではありません。それより、むしろ私たちの人生すべてを神の恵みとして受け止めて、知性、感情、意志の全人格をかけて、誠心誠意を持って生きることです。
そのためには、まず、人生すべては神から授かっているものと受け止めなければなりません。神から与えられている人生、しかも御子イエス・キリストによって贖われ、救われた者として生きるという姿勢が求められるのです。さらに私たちの人生は、他のものに比べられない、かけがえのないものであると認めなければなりません。自然をはじめとする私たちを取り囲むすべての環境に対して感謝の姿勢を持って生きることができれば、生に対する姿勢が変わっていくに違いないと思います。嵐と波の中のような「懐疑と信仰のはざまで」イエスから目を離さず、主に信頼して歩んでいこうではありませんか。
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