ようこそ西川口キリスト教会のホームページへ

地域と共に歩む桜並木の教会

教会員ページ
主日礼拝宣教要旨

2020年10月11日(日) 礼拝宣教要旨 「わたし(達)、あなた(達)、そして彼(等)」 コリントの信徒への手紙一 9章19-23節

戸井田 敦子

わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。

コリントの信徒への手紙一 9章19節

昨年度の女性連合信徒大会の講演は、日本キリスト教団芦屋山手教会員で、関西学院大学人間福祉学部教授の藤井美和先生による「寄り添いについて」でした。その中で、第1人称である自分、第2人称であるあなた(自分にとても近い人)、そして第3人称である彼(自分と特別なかかわりのない人)、それぞれが痛み苦しみを負ったということを想像してみる、という例が挙げられたのですが、自分の中で、自分や近しい人に抱く感じ方と、第3人称の彼(等)に対しての感じ方に、差があることに改めて気づかされました。これは当たり前のことなのかもしれませんが、相手の苦しみを、本当にそして完全に理解するのはとても難しいことです。
藤井先生は講演の中で寄り添いを、「人間としての個の限界を踏まえつつ、関わる者としてのイエスに倣う働き」とおっしゃいました。人間は決して他の人の苦しみを完全にわかることはできない。それができるのは主イエスだけだ、と思います。イエスは人々を、第3人称ではとらえておられなかった、全ての人を自分に近いものとして、神の愛をもって自分の一部として、愛され憐れまれたのだと思います。
パウロもまた、人々を大きな集団としては捉えなかった。コリントの多様な一人一人を見極め、徹底してその人に「関わる」、それは何より、すべての人を第2人称で愛された「イエスに倣う」行為であると思うのです。
私たち人間が、越えられない個の限界を乗り越えて、それまで第3人称であった誰かに寄り添い、福音を告げ知らせる、それは人間の力だけではできない。そこに神の愛の介在が絶対的に必要であると思います。相手のことが分かるなんて傲慢だけれど、人間はどこかで分かってほしいとも思っている。この矛盾した存在である人間に、神は「神の愛」で応えられます。自分にとって第3人称である誰かを第2人称でとらえ、その苦しみ悩みの全てを分からないながら主イエスの導きを求め、お一人お一人に丁寧に向き合う伝道でありたいと思います。


アイキャッチ画像 Thank you!! to https://pixabay.com/images/id-5351180/

関連記事

PAGE TOP