朴 思郁 協力牧師
「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。3:24 主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。」
哀歌3章23-24節
早くも10月になりました。教会の皆様におかれまして、すべてにおいて、主の恵みと祝福が豊かにありますよう心からお祈り申し上げます。本日の聖書は、旧約聖書の哀歌の一部です。哀歌は、預言者エレミヤが、ユダヤ王国が滅ぼされた時の様子を生々しく描いていることで知られています。私たちは、この哀歌を通して、幾つかの今日を生きるための洞察と励ましを考えてみたいと願っています。
エレミヤは、「苦汁と欠乏の中で/貧しくさすらったときのことを、決して忘れず、覚えているからこそ/わたしの魂は沈み込んでいても」と、如何に苦しみを受けているかを示しているのです。そんな中でも、エレミヤは「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。 わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」と預言します。(エレミヤ29:10-12)
エレミヤが苦しみの中でも懸命に伝えているのは、バビロン捕囚から必ず帰ってくる。そして未来に繁栄と希望を与えてくださる。そして神は、祈り求めることを聞いてくださるということです。それは私たちが苦難を乗り越えられるのは、自らの確信を強めていくことによるのではなく、むしろ上からの力によって満たされることによって可能であるということを示してるのです。言い換えれば、私たちが絶望のどん底から希望を見出すことができる根拠は、他ならぬ神ご自身であるということです。エレミヤは、「それは朝ごとに新たになる。『あなたの真実はそれほど深い。主こそわたしの受ける分』とわたしの魂は言い/わたしは主を待ち望む。」と言います。
「神を待ち望む」ということは、自分の慣れ親しんできた、今までの「神理解」を超えて、さらに新しい神を経験していくことの喜びを表していると思います。「朝ごとに待ち望む」、それは、今までに経験したことのない、神の慈しみと神の憐れみを期待しつつ、一日一日を迎えることです。もし私たちの生活に臨む姿勢がそのように変わるのであれば、いかに幸いなことでしょう。私たちみんなが、どんな境遇にあっても、慈しみ深く、憐れみ豊かな神に希望をおいて、日々新たにされていくことを期待しつつ歩んでいきたいと願います。
Sanna JågasによるPixabayからの画像