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主日礼拝宣教要旨

2020年9月27日(日) 礼拝宣教要旨 「祝福の引き継ぎ」 創世記22章1-14節

村上悦二牧師(秋田バプテスト教会)
 
「きっと神が備えてくださる。 二人は一緒に歩いて行った。」
創世記22章8節

  神はご自身が選んだ器を試されます。 神の試みこそ、神から与えられた務めを果たす為に必要な鍛錬です。 神が愛して取り扱われているゆえです。 神の試みに出会うことこそ、神に選ばれて、赦されて、神の務めを与えられて、養われるしるしです。 

 「神はアブラハムを試された」とあります。 25年間待ち続けた、「あなたの愛する独り子イサクを連れて、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」と言われたのです。 神がご自身の民の「祝福の源」とするために、整え養うための最も過酷な試みです。 ところが、アブラハムは思い悩むどころかためらいもせず、「次の朝早く」動き出し、「息子イサクを連れて、神の命じられた所に向かって行った。」と言います。 

「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする羊はどこにいるのですか。」と尋ねる息子イサクに、どう答えていいのか分からない父親アブラハムの姿があります。 これから神が何をなされるのか分からない、理解もできない。 答えることも、説明することもできない。 「焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と、絞り出して答えるのが精いっぱいであったのでしょう。 この先どうなるのかも分からず、何も知らされず、ただ神の試みに従順に従って、神が示した場所を目指して、三日間ともに沈黙のまま歩いて行った親子の姿があります。 

この時すでに、アブラハムは息子イサクをささげたと言うよりは、自分自身を神にささげたのでしょう。 そして、息子イサクもまた何も分からなかったけれども、父とともに神の祝福を受け取りに行くために、自分をささげたのではないでしょうか。 ここに「祝福の源となる者」と、その「祝福を引き継ぐ者」がともに手を携えて、神の示す地に黙々と向かうふたりの姿を見るのです。

 神の播かれた「祝福の種」、「祝福の源」はあらゆるところに備えられています。 約束された神の「祝福」に大いに期待して祈り求め、感謝して喜んで受け取っていきましょう。 私たちが思い描く望みが絶たれたと思わされたところにこそ、私たちの願いを遥かに超えた神の約束が果たされていくのです。 その祝福は、引き継がれる者によって、更にその地に行き渡っていくのです。 

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