野口 日宇満 宣教師
すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。
使徒言行録 2章4節
新型コロナウィルスの影響によって、私たちの生活は大きく揺さぶられている。世界中の人たちが、会社、学校生活、友達との交流など、これまで当然のものとして享受していたものが奪われている。
このような時代にあって、教会での礼拝は人間を支える本質的な営みであることを再確認しよう。礼拝とは、神の命の息に満たされることである。土の塵で造られた人間は神の命の息を吹き入れられて生きるものとなったと記されている。人間は霊的な存在であり、神との関係が保たれることによって存在が保たれているのである。
主を礼拝する群れである教会は、礼拝において恵みを受けるだけでなく、世に遣わされて主を証しするものとならなければならない。復活の主の命令は「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」であった。福音宣教は教会に与えられた本質的な使命である。
新型コロナウィルスの感染が拡大する中、自分自身の姿や環境を見るときに、宣教どころではなく、現状を維持することだけで精一杯だという思いになる。けれども復活のキリストは、鍵をかけて自分たちの内に閉じ籠っていた弱い弟子たちに、出て行くように、福音の証人となるように語りかけられた。私たちの教会は、何とかして苦しんでいる人、滅びに向かっている人を救いたいという父なる神様の御思いをこの地上にあって行うように求められている。
福音宣教の条件は唯一つ、聖霊に満たされることである。なぜなら聖霊こそが父なる神様の愛そのものだからである。ペンテコステの時に聖霊に満たされた弟子たちは、色々な他国の言葉で語り出した、と記されている。ペンテコステは教会の誕生日と言われるが、教会はその誕生の時から世界宣教を行っていた。神は小さな教会、貧しい教会を用いてご自身の偉大な御業を行われる。聖霊に満たされるときに私たちは主の愛に満たされて、出て行って福音を伝えずにはおれなくなる。
聖霊に満たされるとは、何とかして罪人を救いたいと願われてイエス・キリストをこの地上に送られた神の愛に満たされることに他ならない。罪人のかしらである私のために命さえ捨ててくださった主の愛に応えて、真心から主を礼拝し、主の愛に押し出されて世界宣教をするものとなっていこうではないか。