朴 思郁 協力牧師
「ですから、わたしの方からお伺いするのさえふさわしくないと思いました。ひと言おっしゃってください。そして、わたしの僕をいやしてください。」
ルカによる福音書7章7節
8月を迎えて皆様と共に礼拝を捧げることができますことを心から感謝申し上げます。
毎年8月を迎えるたびに、私たちは、過ぎ去った「時」の出来事を思い起こしつつ、今を生きている私たちそれぞれの生き様を改めて見つめ直す機会として過ごしています。
今年も改めて、私たちの歩んできた歩みを振り返りつつ、その中から思い知らされる数々の事柄を通して、私たちが直面している現実を照らし合わせてみたいと思います。
本日の物語で、主な話題になるのは一人の軍人である百人隊長です。私たちは、ローマ帝国出身の軍人と思われる異邦人の百人隊長の主イエスに対する姿勢を通して、「信じるということ」について教えられます。まず、百人隊長は、長老たちをイエスの所に送ってから、考え続けていたのです。信じるということは、疑うことなくひたすら信じれば良いという事柄ではありません。ある意味、信じるということは、常に自分を見つめ直すために、「考え続けること」と言えると思います。
もうひとつ、彼は自分の日常に照らし合わせて、霊的な事柄を見出しました。彼は、自分と部下との関係性を吟味しながら、あたかもひらめきのように、イエスと自分との関わりについて、大切な霊的な事柄を教えられていました。ごく平凡な日常の事柄から、霊的な教えを見出すこと、それを「神学する」と言います。私たちクリスチャンは誰もが、日常の平凡な出来事から霊的な事柄を考え、そこから信仰が育まれる、いわゆる「神学する」ことができるのです。
最後に、百人隊長の対応から教えられるのは、信じるということは、ほかならぬ「神に自分を明け渡す」という意味であることです。百人隊長にとって、最初のイエスに対する態度は、マルティン・ブーバーがいう<われ―それ>の関係、つまり、イエスは単に自分の願いを叶えてくれる存在として受け止めていました。しかし、考え続けている中、その<われ―それ>の関係は、<われ―なんじ>の関係に変わっていったのです。イエスは、自分の希望を満たしてくれる「手段」ではなく、自分の真の「キュリオス」、すなわち「主」として受け止めていくこと、それが信じるために何より大切なのです。
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