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主日礼拝宣教要旨

2020年7月5日(日) 礼拝宣教要旨 「変わるということ」マルコによる福音書 2章18-22節

朴 思郁 協力牧師

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

マルコによる福音書 2章22節

本日の聖書は、「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」という言葉で知られている有名な箇所です。それは、世間一般の人々の間にも「新しい酒は新しい革袋に盛れ」ということわざとして、「新しい思想内容を表現するためには、新しい様式を必要とする。いつまでも古い形式にばかりこ切な規定として扱われていた「断食」について論争する中で言われた内容の一部です。  
共観福音書の三つの福音書を比べてみると、イエスを訪ねてきた「人々」は、「ヨハネの弟子たち」または「ファリサイ派の人たちやその派の律法学者たち」と思われます。いずれの場合も、信仰を表す形式として、自分の中にある肉体的また世俗的な欲望を抑えて、自分の信心深さを高めていこうとする立場にある、いわゆる「禁欲主義的な信仰」を大切にする人たちでした。そもそも聖書における「断食」は、旧約聖書のレビ記の「贖罪日に関する規定」(レビ16:29)に定められています。
つまりイスラエルに住んでいるすべての人々が、年に一度、贖罪日に日常生活から離れて、何の仕事もせずに、苦行、すなわち食物を断って、自分自身を見つめるというのが「断食」を行う本来の趣旨です。しかし、イエスの時代の宗教関係者たちは、自発的に聖書の規定より遥かに高い基準を設けて、自分たちの宗教心を向上させようとしていました。神の御前にへりくだり、自分を省みるという本来の趣旨より、自分の敬虔の訓練、いわば「修行の一環」として「断食」を行っていたということです。
イエスは、彼らの「断食理解」に潜んでいる独善的な姿勢を「婚礼」のたとえを用いて鋭く指摘されました。言い換えれば、主イエスは、新しい時代を迎えても慣れ親しんできた信仰理解に安住しようとする人たちに、新しい時代にふさわしい新たな信仰のあり方が求められていることを促されていると思われます。常に、自分を振り返りつつ、変えられることを恐れず、勇気をもって取り組んでいくことの大切さを示されているのです。つまり、信仰というのは、ある形式に縛られて、固定されているのではなく、その時代、その状況において、イエスの精神に照らし合わせて、最もイエスの精神が活かされる形に変えられ、常に新たにされていくものであるということを、私たちはこの「断食」の話から教えられるのです。


アイキャッチ画像 Thank you!! to Damon Hall on Unsplash

 

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