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主日礼拝宣教要旨

2020年2月2日(日) 礼拝宣教要旨 「主のために生きる」とは ローマ人への手紙14章7-8節

朴 思郁 協力牧師

わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。


ローマの人への手紙14章7-8節、口語訳

 新型ウイルスの世界的な拡散で、不安を覚えているこの頃を過ごしています。インフルエンザの感染の恐れもあり、衛生の面で更なる注意が必要なときなので、皆さまのご健康が守られますよう心からお祈り申し上げます。
 「主のために生きる」というのは、とても素敵な言葉です。言うまでもなく、「主のために生きる」という事柄は、私たち信仰者の最大の課題であり、ある意味、信仰者としての責任であると思います。しかし問題は、果たして何が「主のために生きる」ことなのかです。場合によって、その言葉を口にする人の狙いや意図によって、「主のために生きる」という意味が変わってしまうこともありうるからです。
 ローマの信徒への手紙14章の前半には、本日の箇所に至るまでの経緯が記されています。そこから「主のために」とは、自分一人の心の中で唱えれば良いほどの事柄ではなく、あくまでも人間関係に関わる事柄であることが分かります。「主のために生きる」ことについて考える際に、まず何より考えなければならないことは、本当に自分は「自分と違う人々」をどのように思っているのかということです。言い換えれば、自分のために生きるのではなく、「主のために生きる」ということは、ほかならぬ、自分と違う考え方や能力、ものの見方を持っている人々を大切にすることであると思います。
 また、自分のやろうとすることが他の人々に及ぼすだろう影響について考えることです。「主のために生きる」ということは、単なる感情だけではなく、知性と意志、いわゆる全人格をもって、具体的な行動を通して示していかなければならないことなのです。その上にしなければならないのは、「主のために生きる」という自分の理解が「本当に正しいのか」を確かめることです。マーティン・ルーサー・キング牧師が、「純粋な無知と良心的な愚かさほど、危険なものはない」と言ったのは、私たちの信念が陥りやすい「落とし穴」を戒めたと思われます。私たちが信仰のゆえに「これぞ神のみ心」と思った時に、特に「確信に満ちた時にこそ」、まず自分を疑うことから、自分の意図などを冷静に確かめることが求められるのです。
 「主のために生きる」という自分の理解を見つめ直しつつ、それぞれの生活の中で、神と人々とに仕えていく、信仰生活に励んでいきたいと願います。


アイキャッチ画像 Thank you!! to Sasin TipchaiによるPixabay

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