斎藤 信一郎 牧師
『すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」』
マタイによる福音書16章17-18節
主イエスが弟子たちを引き連れてガリラヤ湖の北方約35㎞にあるフィリポ・カイサリア地方に行った時のことです。主イエスのことをバプテスマのヨハネや古今東西の有名な預言者に匹敵するとうわさする人々が多い中で、主イエスは弟子たちがどう考えているかを尋ねました。これに対してペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です。」と答えました。ペトロのようにだれかを指して「神の子」ということは、人を神と同等に扱うことを極端に嫌がるユダヤ教社会の中では、ユダヤ人たちから迫害される覚悟を必要とする言葉でした。
主イエスはその言葉を非常に喜ばれました。ここでペトロが告白した言葉は、やがて十字架に並ぶキリスト教の信仰を表す魚のシンボルマークと深い関りがあります。魚のことをギリシャ語でΙΧΘΥΣと書き、それぞれの文字を頭文字に用いると英語でJesus Christ God’s Son Savior という言葉になります。「イエス・キリストは神の子、救い主です」という今回のペトロの信仰告白が元になって出来た言葉です。主イエスはこの信仰理解の上に教会を建てると宣言する一方で、今はこの信仰理解を他の人に語ってはならないと弟子たちに釘を刺しました。それは、『聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。』(Ⅰコリント12章3節)とある通り、この信仰告白を口にする者は、主イエス同様にそれぞれ自分の十字架を背負う覚悟を持ち、その信仰を実践に移すことが求められるからです。従って、聖霊降臨日前の弟子たちにはまだ早かったということでしょう。
この世界では、人の犯す過ちは裁かれ、悔い改めと謝罪、そして償いを求められるのが常であり、ある意味必要なことです。しかし、真の裁き主である主イエスは、人を裁く代わりにご自身が十字架に掛かり、人々の罪の赦しを執り成し祈りながら、あがないの死を遂げて下さったのです。聖霊によって、生身の人間には到底できないはずの主イエスの信仰に生き、実践することを導かれているのが教会です。裁きしかない陰府には到底対抗できない領域であり、信仰告白なのです。
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