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主日礼拝宣教要旨

2020年8月9日(日) 平和主日礼拝 宣教要旨 「どんな平和を求めますか」

朴 思郁 協力牧師

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。・・・・・・キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」

エフェソの信徒への手紙2章14-16節

今年で「戦後75年」となり、戦争の記憶が薄れてゆく中、私たちにとって、果たして「平和を覚えること」の本質的な意味を改めて考えてみたいと思います。聖書の中で、平和という言葉やそれに関連する言葉は、新約聖書に100回以上用いられています。神は、平和の神として、イエスは、平和の王として、聖霊は、平和の霊として言われています。特に、復活の主イエスは、弟子たちに「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)と挨拶をされました。さらに、パウロは 「キリストはわたしたちの平和であります。」といいます。

世の中には、数々の平和が掲げられ、謳われていますが、一般に二つの種類の平和が言われるようになります。その一つは、平和に対するローマ的概念で、パックス・ロマーナ、すなわち「ローマの平和」です。ローマの平和は、軍事的優位に基づいて成り立つ政治的平和であり、潜在的な敵を暴力で制圧することによって、競争的対象を取り除くことを通して成り立つ戦争のない状態です。パックス・ロマーナは、公平と正義に基づく平和ではなく、ローマ帝国の利益が正義であり、ローマ帝国の軍事力が善でした。言い換えれば、ローマの平和は強者の暴力と圧政による平和なのです。

そして、もう一つは、イエス・キリストが与えてくださる平和、すなわち「イエスの平和」(パックス・クリスティー)です。イエスは、平和の王としてこの世に来られました。そして、暴力や軍事力ではなく、十字架の血潮によって平和を成し遂げられました(コロサイ1:20)。イエスは、ローマの平和という名の下、無残にも暴力の犠牲者になりましたが、イエスは、赦しと和解の精神を最後まで貫いて、ローマ帝国の暴力に立ち向かったのです。それを根拠として、パウロは、「キリストは私たちの平和であります」というのです。まさにイエスの平和は、愛と憐れみに基づく真の平和なのです。

今日、私たちは「戦争なき戦争」の時代を生きていると思われます。特にコロナ時代において、世界の国々が自国の安全を守るという名目のもと、戦争のような激しい競争をしていることを目の当たりにしています。新型コロナのワクチンが開発されても、人々の命を救うより、新しい覇権争いの武器として利用されることが危惧されています。私たちは、キリストの精神に従って、神と和解し、神の平和のうちに生きるように呼び集められました。その平和は、私たちの交わりを通して強められ、教会だけにとどまらず、教会の外にまで流れ出て行かねばなりません。その平和の原動力は、他ならぬ、私たちの主、イエス・キリストなのです。「実に、キリストはわたしたちの平和であります。」


アイキャッチ画像 Thanky you!! to 수형 배 from Pixabay

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