朴 思郁 協力牧師
「だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。」
マタイによる福音書5章23-24節
8月の平和月間を過ごしている中、平和の概念やイメージについて、自分の考え方を見つめ直すことの大切さを覚えています。本日の箇所は、「六つのアンチテーゼ(反題)」と言われる箇所の一番目に当たります。きょうの箇所の見出しは「腹を立ててはならない」となっていますが、イエスは、本来の意味を失い形式だけが残って、形骸化した昔の「言い伝え」や「規定」を取り上げて、それを否定するのではなく、本来の意味を見出して、今を生きる私たちにとって、どんな意味があるのかを導き出すことを、何度も繰り返されているように思われます。そういう意味で、今日における平和を覚えるために何よりも強調しなければならない事柄について、本日の聖書を通してご一緒に考えてみたいと思います。
本日の「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という規定の由来は、十戒の第五の戒めとして「殺してはならない」(出20:13)と記されていることです。おそらく、十戒の「殺してはならない」という意味が、歳月が流れていくうちに、いつの間にか「殺すな。人を殺した者は裁きを受ける」という規定に変わっていったと推測されます。今日の日常生活に密接な規定として「飲酒運転をしてはいけない。さもないと飲酒運転すると免許の取り消しになる」という認識はただ単に免許の取り消しを恐れ、飲酒運転をしてはいけないという意味でしょうか。歩行者や相手の運転者の安全のために、飲酒運転をしないことが何よりも大切なことであって、単に罰則を恐れて、飲酒運転をしないことではないのです。人々の命、安全を何よりも大切にすることと同じく、「殺してはならない」という十戒の戒めの本意は、裁きを恐れて殺人を禁止するより、「他人の人権、尊厳さを大切にする」ということが何よりも大切なことです。
イエスは、供え物を捧げる際の事例を話されました。この事例には、礼拝よりも「まずすべきこと」が示されています。それは、他ならぬ、人々の間で仲直りをしなければならない、「和解のつとめ」(コリント二5:18)です。果たして如何にしてそれが可能になるのでしょうか。そのために「まずすべきこと」は、他ならぬ、「自分を裂く」ことです。「自分を裂く」ことは思うように簡単なことではないと思います。しかし、いろいろな理屈やプライドを超えて、躊躇わずに、思い切って自分を裂くときに、自分の閉ざされていた扉が開かれ、新しい次元の世界に導かれると思われます。そのときに私たちははじめて「ご自分を捧げ、人々に仕えるイエスの平和」がもたらす喜びを味わうことができるのでしょう。
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