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主日礼拝宣教要旨

2020年12月20日(日) クリスマス礼拝(在宅主日礼拝) 宣教要旨「起きよ、光を放て」 イザヤ書60章1-4節

朴 思郁 協力牧師

起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。

イザヤ書60章1節

 クリスマス、おめでとうございます!2020年のクリスマスを敬愛する教会の皆さまと共にお祝いすることができますことを大変嬉しく思っております。本日のイザヤ書の内容は、バビロン捕囚を終えて自分の故郷に帰ってきたイスラエルの人々を迎えてくださる神様の励ましです。「起きよ、光を放て!」という言葉は、今日を生きる私たちにとって何を意味するのか、ご一緒に考えてみたいと思います。
 まず、自分を無にして生きることです。パウロは「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました」(フィリピ2:6,7)と言います。すべての存在を超えて、すべてを治めることのできるお方が、その力や権利を主張するより、人間という制限された存在となられたということです。主イエスが示してくださる生き方は、すべてを持っておられるのに、他者のために、自分を無にすることです。自分のことばかり考え、自分を満たしていくために、懸命に生きているのではないかと、自分の生き方を振り返ってみる時になればと願います。
 そして、へりくだって生きることです。パウロの「自分を無にする」という生き方が、自分自身の内面的な姿勢を整えることを意味するのであれば、「へりくだる」とは、表ざたになる生き方であると言えるかもしれません。イエスは、へりくだって生きる、謙遜な生き方を、最後まで貫かれました。それは、徹底的に神の御心を探りながら、「今、ここで、神は何を望んでおられるか」と問いかけながら、神の御心に従っていこうとする姿勢であると思います。果たして、私たちの神との関係、人々との関係は、どんなものなのかを改めて考えるときを過ごしたいと願います。
 最後に、仕えるために生きることです。イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」(マルコ10:45)と言われました。私たちは、クリスマスを通して、改めてイエスがこの世に来られた意味について覚えておきたいと思います。「仕えられるためではなく、仕えるために」という生き方は、特に今の不安の状況の中で、私たちに示されている意味について吟味してみては如何でしょうか。「起きよ、光を放て」とそれぞれの心に語りかけてくださる神の御声に、誠心誠意を持って応えていく、私たちでありたいと願います。


アイキャッチ画像 Marion WellmannによるPixabayからの画像 

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