朴 思郁 協力牧師
「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」
ルカによる福音書18章7節
11月を迎えまして、教会員の皆様の上に神の恵みと憐れみが豊かに注がれますようお祈り申し上げます。本日の箇所はイエスのたとえ話の中の一つになります。特にこのたとえ話は、少し理解し難いたとえ話として知られているたとえのひとつです。そもそもたとえ話は、実際に起きた「事実」ではありませんが、その話の中には何らかの伝えようとする「意味」が含まれていることを、まず理解しなければならないと思います。それゆえたとえ話を正しく理解するためには、その中に描かれている一つひとつの登場人物や事柄などではなく、どんな状況の中で、何のために語られているのかを総合的に勘案して、その意味を探っていくことが大切であると思います。
このたとえ話のあらすじは、ある町にいる「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官と一人のやもめの話です。裁判官は、最初はやもめの訴えを聞いても微動だにしませんでしたが、彼女の粘り強く訴えることによって、「うるさくてかなわないから」と思って、裁判を開くことになったということです。そしてイエスは、「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい」と言われました。イエスがこのたとえ話で、用いられたのは、いわゆる「カルワホメル」論法でした。それは、「カル=軽い」、「ワ=と」、「ホメル=重い」、すなわち「軽い(事柄)と重い(事柄)」という意味ですが、平凡な真理から大切な真理に繋げようと試みる話法の一種なのです。それが「まして神は」という言葉に現れているのです。
イエスは、不正な裁判官でさえも、自分と何の関わりのない人に対して、その粘り強い態度のゆえに、そのやもめの願いに耳を傾けるようになるという事柄を取り上げてから、「まして神は」という展開を通して、神は根気よく祈り求める人々の訴えを無視されず、必ず聞いてくださるという「大事な事柄」を示すことで、信仰の姿勢を教えてくださるのです。未曾有のパンデミックによる厳しい生活を余儀なくされている中、私たち一人ひとりは、「まして神は」という信仰に基づいて、「粘り強く生きる」生き様を示していくことこそが、今の時代における信仰者として、教会共同体としての実践的な行為であることを覚えつつ、今月も神の恵みと憐れみの中で、与えられているそれぞれの人生を精一杯歩んでまいりたいと願います。
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