朴 思郁 協力牧師
それゆえ、主は恵みを与えようとして/あなたたちを待ち/それゆえ、主は憐れみを与えようとして/立ち上がられる。まことに、主は正義の神。なんと幸いなことか、すべて主を待ち望む人は。
イザヤ30章18節
待降節の第一週目の礼拝を通して、改めて主イエスの降誕を「待つ」という意味についてご一緒に考えてみたいと思います。「待つ」ということは、場合によっては退屈な行為と思われるかもしれません。しかし信仰者として「待つ」ということは、単に「待つ」という事柄とは異なります。それは神の約束に基づいて「待つ」ことで、言い換えれば「信仰の行為」と言えるのです。
本日のイザヤ書は、南ユダヤ王国の預言者イザヤが、国の将来について書いた内容です。当時のユダヤ王国は、北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされてから、自分たちもいずれ侵略されるかもしれないという危機感が強まっていました。預言者イザヤは、不安定な現実を憂いながら、不安感を抱いているユダヤの人々に今日の言葉を告げ知らせて、人々を励ましているのです。私たちはこの箇所から「待つ」ということに関する大切な事柄を教えられると思います。
まず、「待つ」ことの主体は、私たち人間側ではないことが示されています。人間の「待つ」ことは、神ご自身が待っておられるからこそ意味があるというのです。この箇所を読み返すとルカによる福音書15章にある「放蕩息子」のたとえを思い出します。「放蕩息子のたとえ」で、息子が不遜な態度をしたり家出をしたりして、いかなる対応をしても、息子を憐れに思い、待っていてくださる父親のように、神は、私たちのことを心にかけていてくださるということが、私たちが「待つ」ことが意味を持つ根拠になるのです。
また、「待つ」ことによって得られる恵みについて紹介しています。「待つ」ことから得られるのは、何より神に関する理解、私たちの神理解が深められるということです。神は、私たちの置かれている全ての状況を知っておられることを確信するように導かれるということが、この上ない恵みなのです。確かに、「待ち続ける」ということは、決して優しいことではありません。しかし、不確かさを抱えながら、まだ来ていない未来に向かって「待ち続ける」ことを通して、私たちの人生は、一段レベルアップし、成熟していくのです。待降節を「主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります」(詩篇39:7)という言葉を口ずさみながら過ごしていきたいと思います。
アイキャッチ画像 thanks!! to Myriam ZillesによるPixabay