西川口キリスト教会 戸田 浩司
このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。
ヘブライ人への手紙 12章2節
イエス様は父なる神様から神の子としての栄光が約束されていたのにも関わらずその地位を捨て、私たちと同じ人の姿で十字架に架かってくださいました。イエス様ご自身には何の罪も無く、ただ私たちの罪の身代わりとなるだけのために。(参照:旧約聖書イザヤ書53章3~8節)
神の子であるイエス様は私たちと同じ地上で生きて私たちと同じ弱さを自ら体験されました。神の子としての立場だけを貫いていれば十字架上での処刑という最大の試練に遭わずに済んだにもかかわらず、あえて人間の姿となって私たちと同じように人生の試練に遭ってくださいました。なぜそんな命を失うまでの試練を自ら選んでいかれたのでしょうか。それは私たちに救いの道、すなわち神様に至る道を切り拓き,私たちの罪が贖われることに主イエスはご自身の人生の全精力を傾けていたからではないでしょうか。
イエス様は辛く苦しいときに弱ってしまう私たちをしっかりと感じ取ってくださいます。み言葉さえも受け入れられない日々、誰にも言えない辛い日々を送るときにも、イエス様は私たちの隣で寄り添い、ときに沈黙されたまま、苦しみを共に耐えてくださっておられます。その姿を思うとき、アメリカ人のマーガレット・F・パワーズが1964年に書いた「Foot Prints」(邦題:あしあと)という詩が想起されます。
やがて来るべき日には私たちは罪から解放され,神の完全な支配のもとに生かされます。私たちは主イエスがその日にすべてのものを新たにしてくださるために再びこの地上に来てくださるのを忍耐をもって待ち望んでいます。同時に主イエスによって贖われた恵みの応答として、私たち自身を主に献げていくことを、イエス様も忍耐強く待ち望んでいらっしゃるのだと思います。
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tahnks!! to Joseph Redfield NinoによるPixabay