牛を焼き尽くす献げ物とする場合には、無傷の雄をささげる。奉納者は主に受け入れられるよう、臨在の幕屋の入り口にそれを引いて行き、手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる。
レビ記 1章3-4節
西川口教会は、2004年に教会ヴィジョンについて話し合い、新会堂建築に向けての歩みをはじめ、約7年かけて献堂に至りました。『福音の喜びを発信していく教会』をメインコンセプトとし、『全年齢層教会学校』を礼拝の大切な要素と理解し、それに見合う会堂建築を推進して参りました。
出エジプト記の後半25~40章は、今日の会堂建築にあたる幕屋建設について詳しく語っています。それを受けてレビ記では、礼拝をテーマに語っています。最初の第1章は、神が求めておられる礼拝についての考え方が明確に示されています。まず、礼拝者は可能ならば牛の捧げ物を用意し、自分の罪深い人生をあがなう捧げ物として頭に手を置き、祈りを捧げることから始めます。それから安楽死させ、本人が時間を掛けて解体し、感謝と悔い改めの祈りを込めて人生を想起しながら礼拝の儀式を進めます。それを一緒にサポートするのが祭司の役割です。礼拝は一人で行うものではなく、協力して神に献げることが示唆されています。
後の章には、捧げ物の一部を他の人々と分かち合う大切さが語られますが、この最初の捧げ物の特徴は、完全に焼き尽くして神に献げられるところにあります。そこには、神が私たちの罪を含む全ての負の人生をあがなって下さるという信仰が込められています。私たちが神に正式に悔い改めを表明する以前に、まず神ご自身が私たちの人生の問題をご自分のこととして引き受けて下さったという福音が表現されているのです。その堅い決意はやがて主イエス・キリストの十字架刑で象徴される全人類のためのあがないの死によって頂点に達し、もはや尊い動物を犠牲として捧げることに終止符を打って下さったのです。第1章の後半部分では、全ての人がこの祝福に預かれるように経済事情も考慮され、一般の人に手が届く羊を牛の代わりにすること、事情によっては鳩を代わりに捧げて良いとの神の側の配慮が語られています。
このようにして今日私たちにも開かれている礼拝であり、平日の教会活動です。共に神に招かれていることを喜び、障がいと向き合っている人々、地域の人々、他の教会の人々、そして国籍を越え、あらゆる人々と共に礼拝を献げる恵を分かち合って参りましょう。
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