朴 思郁 協力牧師
「彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」
イザヤ書 53章5節
イザヤ53章は、「主の僕の苦難と死」として知られている箇所の一部として、福音の真髄であり真理が記されています。とりわけ5節には「主の僕」であるイエスが受けられた苦難の様子が詳しく描かれていると言われています。例えば、「刺し貫かれる」「打ち砕かれる」「懲らしめ」「傷」など、イエスの十字架の苦しみと死を思い起こさせるイメージは、イスラエルの人々が待望していた偉大なるダビデ王のようなメシア像とはかけ離れた、徹底的に打ち砕かれている無残な姿です。
一般的に、「あきらめる」ということは、何のすべもなく、仕方なく「放棄」してしまう、もしくは「断念する」という印象をもたらします。しかし聖書における「あきらめる」という意味は、イエスが逮捕される前日の夜、ゲツセマネというところで祈られた、いわゆる「ゲツセマネの祈り」にあらわれていると思います。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」その祈りには、二つの生き方がぶつかり合う、葛藤の最中にあることが描かれています。
その生き方の一つは、「自己執着」の生き方です。「人間は、これこそ自分自身であると思っているものを守ろうとして壁をめぐらすが、徐々にその壁の内側に閉じ込められ、ついにそこから出られなくなってしまう」と言います。まさに自分に執着しすぎたあまり、自分自身という牢屋に閉じ込められている私たち人間の姿を示しているように思われます。それと関連して、C.S.ルイスが『天国と地獄の離婚』という本の中で、「自己執着こそが罪の本質であり、地獄そのものである」と言ったのは、非常に示唆に富みます。
そしてもう一つは、「あきらめる」という生き方です。主イエスの「ゲツセマネの祈り」から教えられるのは、何よりも「自己執着」から解放されることであると思います。つまり、人生における様々な事柄において、自己中心的な執着から自由になることです。そういう意味で、聖書から学ぶ「あきらめる」とは、「主なる神にすべてを明け渡し、徹底的に委ねる」ことにほかなりません。その上で、日常において、「果たして神の御心、神に喜ばれる生き方は何なのか」を常に求めて生きること、それがほかならぬ「あきらめて生きる」ことなのです。