斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
パウロが十字架と再臨を意識して語っています。そこに込められたパウロの信仰理解を共に黙想しましょう。また、パウロが繰り返し強調する「喜び」とは、一般的な喜びの概念とどう違うのか黙想しましょう。
◆キリストを模範とせよ
2:1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、 2:2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。
>>>パウロがここで言う同じ思いや愛とは、キリストが迫害や困難に立ち向かい、命を惜しまずに愛を貫き通されたように、フィリピの信徒たちも同じ信仰姿勢でいて欲しいということでしょう。パウロたちが生きていた時代は、迫害や困難を覚悟せずに福音宣教を行うことはあり得ない時代でした。私たちはいつの間にか、迫害や困難を伴うような伝道を忘れ、自分たちの心の疲れの癒やし、そして死んだ後、確実に天国に行くことができる希望の方に重きを置くようになってはいないでしょうか。主イエスの次の言葉が思い出されます。
*ヨハネによる福音書16:33 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」…世の苦難と主の平和の共存
2:3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。2:5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。
>>>このように語るパウロの動機の背景には、他の信徒の信仰姿勢や発言を非難しあう現実が、フィリピの信徒の間にあったからだと考えられます。この世では、他人の罪や誤りを指摘し、人を裁いて断罪しようとします。しかし、主イエスは逆の模範を示されました。カギを握るのが、主イエスが教え、最後まで貫かれた十字架理解です。
*ルカによる福音書9:23 「それから、イエスは皆に言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」…キリストの十字架とは他者の罪を断罪する代わりに、自己を犠牲にしてその罪をあがなうというアガペーの愛です。主イエスは同じ精神で毎日、十字架を負うことを招かれます。
*ルカによる福音書14:27 「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」…人を裁かず、隣人は言うに及ばず、敵の罪さえも背負う信仰姿勢こそ、弟子の必須条件と主イエスは教えられました。この理解の上に立って語っているのが上記のパウロの言葉だと考えられます。
2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、 2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、 2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。 2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、 2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです
>>>この世では、自分の権利を主張し、自分が不当に扱われた場合には、当然の権利としてそれを訴えます。また、誰かから軽んじられ、傷つけられた時には、その責任を追及し、謝罪や賠償を求めます。しかし、教会員同士の間では別の選択肢があることを、キリストによって示されているとパウロは言います。天における礼拝は主イエスが貫かれたアガペーの愛を賛美する場だと、パウロは証言しています。だからこそ、この世での礼拝、そして人間関係も、主イエス・キリストのこの世での模範に徹底して生きるようにと招かれているのです。
◆共に喜ぶ
2:12 だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。 2:13 あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。2:14 何事も、不平や理屈を言わずに行いなさい。 2:15 そうすれば、とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に誇ることができるでしょう。
>>>私たちは、「あなたがたの内に働いて、御心」を実現させてくださる聖霊との関わりの中で、神への従順を導かれ、神を適切に恐れて生活し、キリストにあって成熟することを導かれています。私たちには到底キリストのように生きることはできないことをわきまえることは大切です。だからこそ、主イエスが十字架のあがないの死を私たちの代わりに遂げられたのです。それをわきまえた上で、キリストが切り開いて下さった救いの道、すなわち聖霊の導きと助けを仰ぎながら生きることができる新しい可能性に満ちた人生を信じて、不平をつぶやく代わりに、神の子にふさわしく歩むようにとパウロは励ましています。「キリストの日に誇ることができる」とは、キリストの再臨を指すと考えられる言葉です。死が先か、再臨が先か分からない状況の中で、絶えず他のクリスチャンたちを励まして生きようとしていたパウロの信仰姿勢に私たちも学びたいと思います。そうするならば、「今日」という日を、より隣人に対して寛容に、そしてアガペーの愛を持って接することができるのではないでしょうか。
2:17 更に、信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。 2:18 同様に、あなたがたも喜びなさい。わたしと一緒に喜びなさい
>>>現代において「いけにえを献げ」ることは何を意味するのでしょうか。パウロが言いたいのは、キリストのように他者のために犠牲となることを覚悟し、喜ぶことができる人、そのような人こそ礼拝者にふさわしいということなのかもしれません。これは簡単なことではありません。主イエス・キリストの十字架のあがないが、どれほどの覚悟と犠牲を必要としたかをいつも覚えること。そして、私たちひとり一人のために、キリストが十字架を負わなければならなかったことをわきまえる時、パウロが実践した信仰に近づくことができると示されます。
パウロはフィリピの信徒への手紙で繰り返し、「喜び」という言葉を用います。この箇所も連続で「喜び」という言葉が用いられています。一般的に用いられる喜びという言葉の意味とは違い、パウロが用いる「喜び」という言葉には、「キリスト者として迫害されたり、辱められたり、殉教の死を遂げることもキリストに習うこととして喜ぶ覚悟がある」という理解があります。アガペーの愛に通じる重要なパウロの信仰理解だといえます。パウロの信仰の目には、フィリピの信徒たちやその他この世で関わった大勢の信徒たちと共に、天において主イエス・キリストに心から栄光を帰す、喜びに満ちた最高の礼拝が見えていたのではないでしょうか。
アイキャッチ画像 Photo by Ian Schneider on Unsplash