斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
当時のユダヤ人たちにとって「神に義とされる」という意味は、罪を赦され、永遠の命を得るための基準に合格することだったと考えるといいでしょう。律法(旧約聖書)を厳守することこそ必要不可欠と主張するユダヤ教徒およびユダヤ人クリスチャンたち。一方、それを否定し、キリストを信じる信仰によって、神に義とされると主張するパウロ。今回は割礼の是非を中心にキリスト教の神髄に切り込むパウロの言葉に耳を傾けましょう。
◆キリスト者の自由
5:2 ここで、わたしパウロはあなたがたに断言します。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。5:3 割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。
>>>現代と違い、新約聖書がまだ信徒の手元になかった時代でした。旧約聖書の知識も十分にない異邦人出身のクリスチャンが多かったガラテヤ地方の諸教会。そこに旧約聖書の教えをよく知るユダヤ人クリスチャンが来て、「割礼を受けることは聖書の中心的な教えなので、おろそかにしてはいけない」と言われれば、そうする必要はないと反論することは困難だったことでしょう。それでも「パウロから、キリストを救い主と信じて救われる条件としてそのような約束ごとはないと教えられた」と反論する者もいれば、ユダヤ人クリスチャンたちに聞き従う者たちもいたと想像できます。パウロは割礼を受ける、受けないは、その後のキリストとの関係を決定的に変えてしまうほどの重大な信仰理解だと語ります。律法の教えに従い、ユダヤ人同様に割礼を受けるならば、キリストとの関係は断ち切られることになると主張するパウロでした。
5:5 わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです。5:6 キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です。5:7 あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。5:8 このような誘いは、あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません。5:9 わずかなパン種が練り粉全体を膨らませるのです。5:10 あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。あなたがたを惑わす者は、だれであろうと、裁きを受けます。
>>>大切なのは、割礼を受けることを含む律法の教えにどれだけ厳格に従うかではなく、「霊により」即ち聖霊の導きと、「愛の実践を伴う信仰」が大切だと説かれたキリストの教えを信じて従うこと。それが決定的に重要だとパウロは主張します。律法の精神は大切であり、今後もクリスチャンにとって信仰理解に必要不可欠ではあっても、律法の儀式的な要素を異邦人クリスチャンたちは厳守しなくてもいいと理解していたパウロでした。
5:11 兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。5:12 あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい。5:13 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。 5:14律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。5:15 だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。
>>>迫害する側から迫害を受ける側に転じたパウロ。かつてのパウロは、イエスが十字架刑にされたことを当然と考えていました。イエスは重大な律法違反を犯し、神に呪われて死ぬことを象徴する十字架刑で死刑になった犯罪者だと理解していました。しかし、その人物が神の全能の力で復活したことを否定できないと理解したパウロ。そして、そのことを通して、自分を含めて主イエスを敵視したユダヤ教の指導者たちの方が、決して赦されるはずがない重大な罪を犯してしまったと悟ったのでした。その最悪の罪さえも、神の愛とキリストの犠牲によって赦されたことを体験した彼は、律法をだれよりも厳格に守ろうとしても神の義に到達できないことを知っていました。主イエスを信じる信仰によって神に義とされる希望こそが大切なのです。そんな彼の主張には、14節のように絶えず聖書による裏付けとなるみことばが伴いました。
時には教会員同士で意見や聖書理解が異なることもあるでしょう。そのような時に立ち戻って共有していきたいい、パウロの聖書を根拠にした信仰理解と模範です。