斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
◆黙想のポイント
現代の日本に生きる私たちからすると、違和感を覚えるパウロの過激な言葉が多く含まれている手紙です。これは当時のユダヤ人の気性の違いや生活文化の違いが、手紙の文章に影響しているものと考えられます。また、当時の異邦人クリスチャンも、ユダヤ人クリスチャンも、共にそれまで慣れ親しんできた生き方から、戸惑いながらも一生懸命にキリスト者にふさわしい生き方を模索していた時代だったと考えられます。パウロの後にガラテヤ地方にやってきたユダヤ人クリスチャンたちは、必ずしも悪意があって律法を守るように主張していたのではなく、彼らなりに律法に従って生きることが、クリスチャンになってからも大事だと真剣に考えていたのでしょう。しかし、パウロには違うものの見方がありました。パウロの聖書を元にした主張に耳を傾けましょう。
◆◆律法によるか、信仰によるか
3:1 ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。 3:2 あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。 3:3 あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。 3:4 あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに……。 3:5 あなたがたに“霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。 3:6 それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。
>>>パウロは、ダマスコにクリスチャンたちを捕まえに行く途中の体験(使徒言行録9章参照)で、それまでの信仰理解を根底から考え直さなければならなくなりました。律法の厳守と実践こそが神に義とされ、救いに至るために不可欠だと信じていたパウロ。しかし、律法を厳守していた当人たちが、神から遣わされたキリストを十字架に付けて抹殺しまったという否定しがたい事実(1節)。キリストの言葉を信じて祈り求めることによって与えられた聖霊降臨の事実(2-4節)。その後も信仰によって数々の奇跡が行えた事実(5節)。すべては律法の実践によってではなく、神の約束を信じる信仰によっていたことを主張します。しかも、創世記12章から始まる信仰の父と称されるアブラハムの話の中に、始めからこれを正当化する根拠があったことをパウロは見出していました。創世記15章6節の「アブラハムは神を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。即ち、アブラハムが信仰によって神に義と認められたのは、イスラエルの民が神から律法を授かる遙か以前の出来事でした。そのことから、律法をことごとく厳守することなしに、信仰によって神に義とされることができるという根拠が聖書にあったことを、彼は理解していたのです(6節)。
3:26 あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。 3:27 洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。 3:28 そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。 3:29 あなたがたは、もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫であり、約束による相続人です。
>>>パウロは律法の厳守によってではなく、キリスト・イエスを信じる信仰によってもたらされる数々の恵について、引き続き語ります。彼らは信仰によって神の子とされます(26節)。当時の人々は民族ごとに特有の衣装を着ていました。それになぞらえて、クリスチャンはキリストから新しい霊の服を着せられていると語ります。これは一つの新しい民族の誕生を連想させます。パウロはそのような自覚を促しているのでしょうか(27節)。また、クリスチャンはもはや身分の違い、人種の違い、性差の違いを超越して、各自が豊かにキリストに用いられ、仕えることができる大切な存在にされます(28節)。そして、クリスチャンはユダヤ人出身、異邦人出身を問わず、アブラハムの子孫と見なされ、神がアブラハムの子孫に相続させると約束された、すべての祝福の相続人になる恵にあずかっていると主張しました(29節)。
イエス・キリストを救い主と信じて従うことは、このような恵をすでに与えられていることを意味します。もはや律法は、神からの恵を受けるために存在するのではなく、神の恵みに対する「感謝の応答の仕方を導く」ための、神に聖くされた者たちに神への応答の仕方を導く書「聖書」に変えられました。このことを感謝したいと思います。