斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>
※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
ゴルゴタの丘に向かう長い石畳の坂道を、十字架を担いで登っていく主イエスの心理。道沿いに、様々な立場でたたずむ群衆の心理。途中で十字架を担がされるキレネ人シモンの心理。「エルサレムの娘たち」に話しかけられた時のイエスの心理。十字架に掛けられた主イエスに、三者が一様に「自分自身を救え」とののしった時の心理と、それを聞いていた主イエスの心理。主イエスに憐れみを願い出た片方の犯罪者の心理。それに応えた時の主イエスの心理など、今回の箇所は黙想のポイントが多くあります。聖書教育誌が提示している幅広い視点もご参照下さい。
◆◆十字架につけられる
23:26 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。 23:27 民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。 23:28 イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。 23:29 人々が、『子を産めない女、産んだことのない胎、乳を飲ませたことのない乳房は幸いだ』と言う日が来る。 23:30 そのとき、人々は山に向かっては、/『我々の上に崩れ落ちてくれ』と言い、/丘に向かっては、/『我々を覆ってくれ』と言い始める。 23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。」
>>>ルカが独自に登場させているキレネ人シモンの出身地は、地中海に面するギリシャの南対岸にあるリビア半島の沿岸町です。主イエスが28節以降で念頭に置いている「エルサレムの娘たち」に訪れる惨劇とは何でしょうか。紀元70年に起きるローマ軍によるエルサレム占領と、その三年後、死海付近の自然要塞マサダで、悲惨な飢餓攻めの末に迎えたイスラエルの滅亡。或いは、その後1948年にイスラエルが再び国家設立を宣言する時まで、ユダヤ人たちが受けたホロコーストに代表される数々の迫害。それとも、黙示録に預言されている終末における、さらなるユダヤ人の迫害のことでしょうか。極限状況の中でも、イスラエルが将来にわたって直面する悲劇に心を向ける、主イエスの憐れみの深さが伺えます。
23:32 ほかにも、二人の犯罪人が、イエスと一緒に死刑にされるために、引かれて行った。 23:33 「されこうべ」と呼ばれている所に来ると、そこで人々はイエスを十字架につけた。犯罪人も、一人は右に一人は左に、十字架につけた。 23:34 〔そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」〕人々はくじを引いて、イエスの服を分け合った。 23:35 民衆は立って見つめていた。議員たちも、あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」 23:36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、 23:37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」 23:38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」
>>>議員たち、兵士たち、そして十字架に掛けられた犯罪者の一人が共通して「自分自身を救うがよい。」と主イエスをののしったことを、ルカは強調しています。自分自身を救えない人類だからこそ、唯一自分自身を救うことができる救い主が、私たちの最も深刻な罪の問題をご自身の問題として背負って、自ら十字架にかかられたのです。
23:40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。 23:41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」 23:42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。 23:43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。
>>>マルコによる福音書、及び、マタイによる福音書は、十字架に掛けられた他の二人が強盗だったと説明しています。片方の囚人をたしなめたもう一人の囚人の言葉を吟味してみると、彼が神を恐れることを知っているこ、自分たちのしたことが重罪だと自覚していること、主イエスが十字架に付けられなければならないほどの罪を犯していないと理解しているこ、何よりも主イエスが「御国においでになるとき」が間もなく来ること、そして死を直前に迎えた囚人であるにも関わらず、主イエスが彼を救うことができると確信していることがわかります。これらのことから、この死刑囚は主イエスの福音にどこかの時点で触れていた可能性が考えられます。ルカは繰り返し、絶望のただ中から主イエスによって救い出される人々を福音書に描き続けています。その救いが「今日」という日に訪れることに感謝します。