西川口キリスト教会 斎藤信一郎
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
前回は16章後半の、神の国の住人であることを意識して生きることが天国の幸いに通じることを学びました。
今回の箇所の直前の17章10節までの内容は、主イエスの4つの教えで構成されています(概略)。
・1-2節)隣人の信仰をつまずかせてしまうのは、神の目には極めて重大な罪であること。
・3-4節)罪を犯す人を戒める大切さ。かつ、悔い改めたら、何度でも赦すことの大切さ。
・5-6節)弟子たちは信仰を増すことを願うが、すでに与えられている各自の信仰の用い方が重要であること。
・7-10節)使命を成し遂げる確固たる意志を持ち、僕にふさわしく、謙遜かつ忠実に神に仕えること。
大きな流れとしては、「神の国に生きるとは、どのような信仰を大切にしながら生きることを指すのか」を主イエスは教え続けています。今回はエルサレムに向かう途上、サマリアとガリラヤの間付近での二つの出来事が語られます。どのような神の国の住人としての生き方が示されているのか、黙想しましょう。
◆重い皮膚病を患っている十人の人をいやす
17:11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。 17:12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、 17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。 17:14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。
>>>12節の表現では、10人の患者は予め主イエスの一行がそこを通過することを予想し、癒やしを期待して待っていたようです。主イエスは直接彼らを癒す代わりに、重い皮膚病から回復した時の聖書の定めに従い、そのまま祭司に体を見せに行くように指示します(レビ記13章)。彼らはその途中で癒されたことが語られています。
17:15 その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。 17:16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。 17:17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。 17:18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」 17:19 それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
>>>聖書に登場する神の国の描写にはしばしば、神の比類無き憐れみと救いを体験した者たちが、心から神(もしくはキリスト)に感謝を献げる姿が表現されています。同じように、この箇所は私たちが、普段からの神の恵みに対して、どう応答して生きているかが問われているようです。神にひたすら恵と憐れみを求め続ける人生を送るのか。それとも神の恵みと憐れみにどう応答するかを考えて行動に移すのか。私たちの現実の生き方が問われる箇所です。そのサマリア人は外国人=ユダヤ教徒ではありませんでしたが、神の国に生きる幸いを見出し始めます。
◆神の国が来る
17:20 ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。 17:21 『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」
>>>神の国に生きることについて考えさせられる内容が続きます。ファリサイ派の人々は神の国を、将来のある時点になって始めて実現する神の王国だ、と受け止めていたようです。主イエスはそれを否定します。聖書の他の箇所から総合的に考えると、神の国はこの現実の世界に生きている時から始まっていく、少し異次元性のあるものとして語られています(ルカ11章20節「神の国はあなたたちのところに来ているのだ」等)。また、神の国は、場所を特定できるような次元の世界ではないと説明します。「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」とは、興味深い表現です。特に「あなたがたの間」がポイントです。大宇宙が現在でも、絶えず星雲間の化学反応によって新しく生まれ、拡大しているように、神の国がキリストの愛に基づく人と人との化学反応によって、絶えず新たに創造されていくようなイメージがあります。みなさんはどのようなイメージを持っておられるでしょうか。最後に、主イエスが神の国について説明する時に、21節で「実に」という単語を用いていることに着目したいと思います。これは新約聖書で数十回「見よ」と、注意を促す時に用いられている言葉です。主イエスがこの教えの理解を深めて欲しいと願っている、大切な真理だと示されます。