斎藤 信一郎 牧師
<原則として、ご自分で聖書本文を読み、黙想してから以下の文章、聖書教育誌、その他の参考文献を読むことをお奨めします。また、黙想の際に聖書地図で確認し、違う聖書訳を比較して読むこともお奨めします。>※『聖書教育』誌は日本バプテスト連盟から発行されています。詳細は下記のURLでご照会下さい。 http://www.bapren.com/index.html (『聖書教育』ホームページ)
◆黙想のポイント
前回13章で、主イエスはすべての人が例外なく神の御前に悔い改めて=方向転換し、神の愛と憐れみに生きることが求められていると宣教しました。その後も主イエスは16章に至るまで、神の国とはどのような場所なのかを繰り返し語っていかれます。主イエスは、神の国が神の愛と憐れみによる多様な人々との豊かな交わりにあることを伝えようとしますが、それをなかなか理解しない人々に対して嘆かれます。今回の直前の15節でも、主イエスは、力づくで神の国に入ろうとする人々=つまり神に頼らずに神の国に入ろうとする人々の誤りを指摘しておられます。自分たちの力で神の国に入ろうとする誤りから抜け出すためにも、自分の十字架を背負うこと、即ちこれまで絶対視して来た己の肉的な欲望や価値観を十字架に付け、同時に他者を憐れみ、その重荷を自分のこととして背負う、キリストが自ら選び取った十字架を背負うことによって、神の国にふさわしい住人になるようにと招いています。これらの理解を前提に、今回のたとえが語られています。
◆金持ちとラザロ
16:19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。 16:20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、 16:21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。 16:22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。 16:23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。 16:24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』 16:25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
>>>このたとえは、私たちの霊魂が死んだ後に行く領域が2種類あることを示唆しています。一つは楽園(23章43節、もしくは口語訳でパラダイス)と呼ばれる、神の愛と慰めに包まれた場所。もう一つは陰府(よみ)と呼ばれる、魂に安らぎが与えられない苦痛を伴う裁きが持続する場所。どちらに死後向かうことになるかは、生きている間に、正しく悔い改めて生きるようになるかどうかにかかっていることを、主イエスはたとえを用いて示唆します。互いの足りないところを補い合うために与えられる様々な恵みの賜物(命、健康、財産、能力等)を、神の愛と憐れみの実践のために他者に実践して生きたかどうか。それをわきまえずに、神の賜物を自己中心的に浪費したかどうかがカギを握ります。
16:26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』 16:27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。 16:28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』 16:29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』 16:30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』 16:31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
>>>ルカのたとえは、この世にいる間に神のみこころに背いて生きる自己中心的な生き方を「悔い改め」(ルカによる福音書で13回使用され、新約聖書中最多)、神の国の住人にふさわしい生き方を選び取って生きることの重要性を強調しています。死んでから後悔しても遅く、生きている間に、自分の人生の選択が誤った方向に向かっていることに気づき悔い改める機会は、聖書を通して与えられていると主イエスは言います。「神かキリストが自分の目の前に現れてくれれば…」などと、超自然的な出来事があれば神を信じるという考え方を耳にします。しかし、神は強制的に人間が信じざるを得ないような方法で服従させるお方ではありません。神の国は、自発的に心から喜んで愛と憐れみを実践する者たちによって構成される場所です。この世において、そのような生き方を望まない人は行くことができません。しかし、そのような生き方の尊さ、そして喜びを知らないままに生きている人々も少なくありません。キリストは今も教会を通して、神の国に生きる福音をすべての人に伝えたいと願っておられます。
※画像はこちらよりいただきました。StockSnapによるPixabayからの画像